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 岸本聡子著「地域主権という希望」を読んだ。近年の極右の台頭、新自由主義による格差の拡大、既存の左派政党の転落、気候変動と言った複数の危機のなかで、「ミュニシパリズム」が確かな希望として急成長している。
本書は2022年6月19日投票の東京都杉並区長選挙で、市民団体の支援を受けて初めて選挙に立候補し当選した著者の目指す社会構築の基盤としての、「ミュニシパリズム=地域主権」の発生経緯、目標、具体例を述べたものである。

地方自治体の意である「ミュニシパリティ」からきているミュニシパリズムは、政治参加を選挙による間接民主主義に限定せずに、地域に根付いた自治的な民主主義や合意形成を重視する考え方だ。ミュニシパリズムを掲げる自治体は、市民の直接的な政治参加、公共サービスの再公営化や地方公営企業の設立、公営住宅の拡大、地元産の再生可能エネルギーの促進、行政の透明性と説明責任の強化といった政策を次々に導入している。

2018年11月に欧州議会内で開催した「ミュニシパライズ・ヨーロッパ!」と題する討論会には、バルセロナ、ナポリ、グルノーブル、アムステルダム、パリ、コペンハーゲン、ルーベンの副市長、市議たちが登壇した。いずれも近年の選挙で市政与党となった議員たちだ。

イタリアでの実践例として、市民が2011年に国民投票によって、水道事業から利益を上げることを禁止する憲法改正にこぎつけたが、多くの自治体が利益追求型の水道サービスの形態を変えなかった。そのなかで、マギストリス市長率いるナポリ市は、全国に先駆けて水道サービスの公的所有を確立し、水をコモン=公共財と位置付けた改革を行った。

バルセロナでは、進歩的な地域政党「バルセロナ・コモンズ」が市民運動から誕生し、2015年の地方選挙で勝利した。バルセロナはミュニシパリズムの先駆的・中心的な存在で、様々な既得権益と闘いながら、市民とともに変革を進めてきた。
2018年12月、市は100件目となる市立保育園の設置を実施、22件目となるアパートの買い取りを行い、今までで最大規模の114世帯が入居できる公営住宅が誕生した。

バルセロナ・コモンズが市政を担当してから、合計で8960世帯分の公営住宅を新たに供給できたことになる。その他にも、低所得世帯が利用できる公営の葬儀サービス会社の設立、DV被害者救済サービスの再公営化、地元産の自然エネルギー供給公営企業を設立し、いずれも軌道に乗せている。

バルセロナ・コモンズの理論的支柱でもある第一副市長のジェラルド・ピッサレロは、経済の民主化、連帯、ミュニシパリリストのビジョンとその国際連携によって極右の台頭に対抗することを提案する。この国際主義こそ、ミュニシパリストが地域的な保護主義と一線を画する最大の特徴である。

ミュニシパリストが国際連携しネットワークするというこの考えを、バルセロナは2016年に「フィアレスシティ(恐れぬ自治体)」の設立を呼び掛けることで具体化させた。フィアレスシティは、抑圧的なEUや国家、多国籍企業、マスメディアを恐れず、地域経済と地域の民主主義を積極的に発展させることへの制裁を恐れないと謳う、住民と自治体の国際的なネットワークだ。2018年はニューヨーク、ワルシャワ、バルパライソ、ブリュッセルでフィアレスシティ会議が開かれた。

グルノーブル市は、フランスで2006年に水道サービスを再公営化したパイオニア。現在、同市は温室効果ガスの低減に向け、暖房や街灯などをすべて地元のエネルギーサービスで賄うべく、エネルギーの再公営化を目指している。再公営化は環境的な目的だけでなく、電気料金の支払いができない世帯を守る料金体系を設定する、社会的な政策も可能にする。

学校給食についても常に公共の管理のもとに置いており、さらに現在は地元産の100%有機食材使用を目指している。また、グルノーブル市には市民参加型予算制度があり、この枠組みを使い、市民の要求が予算化されて、市立図書館の閉鎖を回避できたこともある。

アムステルダム市は、Airbnbの規制にいち早く乗り出し、Airbnbの民泊を年間30日までと限定した。企業や資本家がAirbnb用に不動産を買い占めることが問題になっていて、他の首都同様、アムステルダムの住宅不足と価格高騰は深刻かつ緊急課題だからだ。

国家主義や権威主義を振りかざす中央政府によって人権、公共財、民主主義が脅かされつつある今日、ミュニシパリズムは地域で住民が直接参加して合理的な未来を検討する実践によって、自由や市民権を公的空間に拡大しようとする運動だと言える。具体的には、社会的権利、公共財(コモンズ)の保護、フェミニズム、反汚職、格差や不平等の是正、民主主義を共通の価値として、地域、自治、解放、市民主導、対等な関係性、市民の参加を尊重する。

ミュニシパリズムは普通の人が地域政治に参画することで、市民として力を取り戻すことを求め、時にトップダウンの議会制民主主義に挑戦する。政治家に対しては、地域の集会の合意を下から上にあげていく役割を、100%の透明性を持って行うことを求める。

日本では、2018年に安倍政権によって種子法が廃止された。これに対し、2018年12月、岐阜県議会が「種子条例」を制定すると報じられた。種子の安定供給に、国に代わって県が責任を持ち、市場任せにしないことを岐阜県は明確にしたことになる。埼玉県、新潟県、兵庫県、山形県も、種子法廃止と前後して、種子の安定供給を促す条例をすでに制定し、2022年6月時点で31道県が種子条例を制定している。

また同年12月には、多くの懸念を残しながら、コンセッション方式を含む改正水道法が成立した。これに対して福井県議会は「水道法改正案の慎重審議を求める意見書」、新潟県議会は「水道民営化を推し進める水道法改正案に反対する意見書」を提出した。このような地域主権、地域自治の表明は、民主的な議会での議論や地方自治をないがしろにし続ける強権的な中央政府を持つ国では、特に重要である。

ドイツのヘッセン州北部の小都市ヴォルフハーゲン(人口約1万4000人)は、2005年にいち早くドイツ系電力多国籍企業エーオンと20年の契約を経て決別し、送電線を再公営化した。同時に、新設された市営電力公社シュタットベルケ。ヴォルフハーゲンの共同オーナーに地元のエネルギー協同組合を迎えることで、市民と自治体が協働する電力モデルのパイオニアとなった。そしてヴォルフハーゲン市は、目標より1年前倒しで、2014年に再生可能エネルギー100%という供給目標を達成した。

スペイン南部アンダルシア州の都市カディス(人口12万人)は、2015年と2019年の地方選挙で連続してミュニシパリズムを標榜する市民政党が勝利し、半官半民の電力会社「エレクトリカ・デ・カディス」を100%再生可能エネルギー供給会社にする改革が進んでいる。

英国南西部の小都市プリマスでは、10年以上にわたる国の厳しい緊縮財政による社会的支出の大幅削減を反映し、住民の健康や公衆衛生が大きく後退し、子供の貧困率、電力貧困世帯率がともに40%に上っている。市議会は、これらの問題解決のために、のちの地域住民の組織であるプリマス・エネルギー・コミュニティ(PEC)を対等なパートナーとして位置づけ、その立ち上げに協力した。

PECは、地元住民が所有する太陽光などの再生可能エネルギーインフラを作り、生まれた収益は、市民投資家に還元した後、サービス向上や料金値下げとして利用者に還元される。さらなる余剰金は、電力貧困世帯を支援する社会プログラムや他のコミュニティプロジェクトの運営に充てられる。

外国企業などではなく、公的機関と住民が所有し、民主的に管理することで、気候変動や不平等という今日的な難題を、地域の力を蓄える前向きな課題に変換できる。国家やEUは、気候変動対策として、市民や自治体が自律的に実践するジャスト・トランジションを公的資金によって支援し、公共政策で他のどこでも実践できるように拡大してほしい。無駄にする時間は一秒もないのだから。

2020年のフランス地方選挙では、8の主要都市で「ヨーロッパエコロジー・緑の党(EELV)が勝利し、7人の「「緑の新市長」が誕生した。選挙運動のなかで、フランス全国に410ものミュニシパリズムに基づく「市民コレクティブ」が誕生し、選挙戦を戦った。市民コレクティブとは、左派政党だけでなく市民団体や社会運動体、個人も加わって、市民参加型の候補者リストを一緒に作り上げていく選挙運動の形のこと。

ヨーロッパのNGO活動から東京都杉並区長選挙当選までの「下からの民主主義」を追求してきた著者の体験記については、前著「私がつかんだコモンと民主主義」を参照。

斎藤幸平著「ゼロからの資本論」を読んだ。労働者の生活は、非正規に限らず正社員もカツカツ、地球環境も危機的状況であることから、誰もが不安や生きづらさを感じている。生活は豊かなものになるという約束が、21世紀にはもはや果たされなくなりつつある。だから、様々なところで資本主義を「改革」する必要が唱えられるようになっている。

本書は、近年の研究成果も踏まえて「資本論」を全く新しい視点で―"ゼロから"―読み直し、マルクスの思想を21世紀に生かす道を論考し、資本主義ではない別の社会を想像する力を取り戻すことを意図している。「資本論」を読むことで私たちはこの社会の不自由を的確に表現できるようになり、失われた自由を回復するための第一歩になる。

エコロジーと並んで、晩年のマルクスが熱心に研究していたテーマが、資本主義以前の西欧、あるいは当時の非西欧社会にまだ存在していた「共同体」である。これらの原古的共同体は、「持続可能性」と「平等」を両立させることができていた。そこには、資本主義とは全く異なる仕方での人間と自然の物質代謝の営みがあった。

共同体では、「富」が一部の人に偏ったり、奪い合いになったりしないよう、生産規模や個人所有できる財産に強い規制をかけることで、人口や資本、生産や消費の総量が変わらないまま推移する「定常型経済」を実現していた。また、遠方との交易も限定されていたから、自給自足に近い形で「循環型経済」を実現していたから、飛躍的な生産力の増大も、土壌を疲弊させることもなく、自然に必要以上の負荷をかけることもなかった。ところが、資本主義の「囲い込み」と工業化によって、自然の持つ力が壊されていった。

晩年のマルクスは初期の生産力重視の「唯物史観」と決別し、西欧が失った平等や持続可能性をいまだに保持している共同体社会の可能性を高く評価するようになり、コミュニズムの基盤になるとさえ言う。つまり、ロシアの共同体は、資本主義導入による共同体破壊のような外的な強制力なしに、西欧民主主義の果実をうまく取り込みさえすれば、自分たちの力でコミュニズム(=「近代社会が指向している経済制度」)を打ち立てることができると言う。

無限の資本の価値増殖と競争のための技術革新は、「修復不可能な亀裂」を生んでしまう。マルクスは、米欧での資本主義の危機は、資本主義制度の消滅によって終結し、また近代社会が、最も原古的な類型のより高次の形態である集団的な生産および領有へと復帰することによって終結すると言う。

「高次の」共同体社会を実現するために、無限の経済成長や生産力増強は必要ない。これは「脱成長」型経済であり、晩期マルクスのコミュニズム像は、「脱成長コミュニズム」になっていく。これこそが、大国を目指したソ連や中国とは全く違う、ポスト資本主義社会の可能性を切り開く。

マルクスが思い描いていた将来社会は、「コモン(共有財産)の再生」であり、コモン(common)に基づいた社会こそがコミュニズム(communism)である。換言すれば、社会の「富」が「商品」として現れないように、みんなでシェアして、自治管理していく、平等で持続可能な定常型経済社会を晩年のマルクスは構想していた。富をコモンとしてシェアする仕方は、人々が各々の能力に応じて人々に与え、必要に応じて人々から受け取ることができるというものである。

マルクスは、協同組合的生産がコミュニズムの基礎であるとしている。協同組合といっても念頭にあるのは労働者協同組合である。2022年10月に、日本でも「労働者協同組合法」が施行された。その理念は、協同組合においては、構成員の労働者たちは自分たちで出資し、共同経営者となる。それによって、労働者は自分たちで能動的に、民主的な仕方で、生産に関する意思決定を目指す。

資本家たちに雇われて給料をもらうという賃労働のあり方が終わりを告げ、自分たちで主体的、かつ民主的に会社を経営するようになる。協同組合が作るものは、ぜいたく品ではなく、人々が生きていくのに欠かせないような必需品である。労働者協同組合は、労働者の生きがいや地域のニーズを重視し、生産に必要な知識や生産手段、生産物が<コモン>になっていく。さらに、協同組合はソーシャルビジネスや自治体ともつながっていくことで、もっと広いマクロな範囲でアソシエーションを構築していくことができる。

世界初の「労働者自治政府」として歴史に名を残すパリ・コミューンが、2カ月後の1871年5月末に軍隊によって鎮圧されてしまった原因の一つは、パリ・コミューンが孤立していたから。警察の封鎖線が敷かれて、地方とのやり取りが制限されたため、地方の人々は、「新聞の嘘と中傷」を通じてしか、コミューンで行われていた試みを見ることができず、一緒に戦おうとしなかった。

今、世界的に大きな注目を集めているのが、スペイン第二の都市バルセロナの呼びかけで始まった「ミュニシパリズム(地域自治主義)」の国際的ネットワークである。なかでも、2050年までの脱炭素社会実現を目指すアムステルダム市が、コロナ禍のさなかに、オックスフォード大学の経済学者ケイト・ラワースの「ドーナツ経済」という考えを導入することを発表して、話題を呼んだ。これは、ドーナツの内輪(社会的基盤)と外輪(地球の環境的上限)の間に入るような生活を実現することを要請するもの。

ドイツのベルリン州でも、家賃高騰に反対する住民たちが中心となった住民投票が2021年9月行われた。その内容は3000戸以上のアパートを所有する不動産会社に対して、州がその一部を強制的に買い上げ、公営住宅にするという非常に大胆なもので賛成多数となった。民営化や緊縮のような新自由主義的な政策を押し付ける国家や、社会の富を商品化しようとするグローバル企業に対して「恐れることなく」NOを突き付け、全住民のために行動する革新的自治体が生まれている。

近年の経済格差、気候変動、パンデミックと戦争。「資本主義はそろそろ限界かもしれない」と感じている人は、若い世代を中心に確実に増えている。「これからも、これまで通り経済成長と技術革新を続けていけば、いつかはみんなが豊かになる」という"トリクルダウン"の神話は、もはや説得力を失っている。

どんな社会にすればよいのか、今、はっきりした答えはないが、世界では<コモン>の領域を広げていこうとする動きが市民を中心として広がり、国際的な連帯を生み出している。そうした事例に学びながら、それぞれの知を持ち寄って、偏見なしにあらゆる可能性を考え、行動する時である。

資本主義は格差や分断を生み、弱き者たちからさらに奪ってきた。そして市場は貨幣なき者を排除する。だから、商品化の力を弱めて、人々が参加できる民主主義の領域を経済の領域にも広げようとマルクスは言う。それこそがあらゆるものの「商品化(commodification)」から、あらゆるものの「コモン化(commonification)」への大転換に向けた、コミュニズムの闘いである。

 白川真澄著「脱成長のポスト資本主義」を読んだ。資本主義は、いま2つの壁=難問に直面している。先進国における途方もない格差の拡大と長期停滞(低成長・低インフレ・低金利)である。この2つが資本主義に対する懐疑と不信を掻き立てる大きな要因である。

格差拡大の原因は、企業がコスト切り下げのために低賃金の非正規雇用を急増させてきたことである。また金融資本主義化によって、株価高騰や金融商品の値上がりなどによって富裕層の所得や資産が急増した。さらに新自由主義路線のもとで格差拡大は放置され、貧困に陥る人が急増した。

長期停滞の原因は、1.人口減少に伴う労働力不足が急速に進行していること、2.貧富の格差が急速に拡大していること、3.企業が大きな利益を生む新しい投資先となる産業分野を見いだせず、設備投資が停滞していることである。低成長の常態化は、成長を最大の動機とする資本主義の存立根拠を奪う出来事に他ならない。これが人々を不安に駆り立てている。

資本主義のオルタナティブとしては、2つの方向が提案されている。1つは、多国籍企業と金融化が主導する現在の資本主義を、公共的に規制された《よりましな資本主義》に転換させるというものである。すなわち、国家による所得再配分の強化によって格差を縮小し、消費支出の拡大によって経済成長を回復するという構想である。

もう一つは、脱資本主義的な社会(脱商品化、脱成長、脱利潤原理などの原理に基づく社会)のモデルをローカルから創出し、資本主義による包摂・統合の作用と対抗しつつ、資本主義システムを蚕食していくという構想である。

両者は資本主義への向き合い方が正反対なのだが、いずれも資本によるグローバリゼーションに対抗しようとする。そして資本主義、とくに資本主義世界システムに対する公共的な規制を強化するという点では重なってくる。

《よりましな資本主義》への転換戦略の問題点は、消費の質や中身を不問にしたまま、ひたすら消費拡大による経済成長を描いており、気候変動の危機や自然生態系の破壊を招くことである。また、公共的規制のため国家が主役として復活し、ナショナリズムの復興という動きが強まる。

脱資本主義的な社会の原理と特徴は次のようである。
1.脱労働力商品化/労働のあり方を変革する
 *ナリワイ(自営業)、つまり賃金を得て労働する以外の働き方が成り立っていて、人々がいずれかを選択することができる。労働力商品化からの脱却になる。

2.脱成長/経済成長主義から脱却した経済・社会のモデルを創出する
 *地域の資源を生かし、モノ・おカネ・仕事が地域内で循環する経済システムを
  創る(エネルギーや食の地産地消、半農半Xの働き方など)
 *蓄積されたストックを活用した共有する経済を発展させる(空き家・空き室や
  クルマのシェアリング、耕作放棄地の再生)
 *互酬と助け合いの活動を活性化する(地域のケア、地域通貨)
 *労働時間を抜本的に短縮する(年1300時間、週3日労働あるいは毎日4時間労
  働)
 *経済の中心をモノづくりから人へのサービスにシフトする。製造業は高付加価
  値のモノづくりに集中する

3.脱利潤原理/利潤の最大化を優先することから脱却した企業や経営・事業のあり
 方を創出・拡大する
 *協同組合や社会的連帯経済を発展させる
 *巨大企業を頂点とするピラミッド型の生産・供給システムから中小・零細企
  業・自営業・協同組合が主役の自立・ネットワーク型のシステムに転換する。

4.脱商品化/市場(商品)に依存しない活動や取引を広げる
 *医療や介護や子育てや教育は、誰もが利用できるように市場に委ねず公共的に
  規制し、無償で提供する
 *人間の生命・身体や自然は、商品として取引することを禁止する
 *様々な活動を商品化されたサービスとして購入することを抑え、自分たちの手
  で行う(料理、悩み事の相談)。無償の助け合いや共同の活動として行う(子
  育て)
5.脱グローバル化/連帯する(開かれた)ローカリズムを発展させる
 *過剰なマネーのグローバルな投機的移動を禁じて、マネーをローカルな経済や
  コミュニティに埋め戻す
 *マネーの移動は制限し、モノの交易は適正に規制し、ヒトと文化の移動は自由
  にする

資本主義に対する民衆の対抗とオルタナティブの創出は、ローカル(地域)とナショナル(国民国家)とグローバルという三つのレベルで繰り広げられる。
 第1のローカル(地域)のレベルでは、民衆の対抗力と創造力が最も濃密かつ持続的に現れる。
 第2のナショナル(国民国家)のレベルでは、資本主義のあり方をめぐる政治的な攻防が展開される。
 第3のグローバルなレベルでは、国境を超える多国籍企業とマネーの活動に対する民衆の運動と力の形成が課題となる。

資本主義に対する3つのレベルの運動や活動を有機的に連携させることができれば、資本主義へのオルタナティブは、人々の中にリアリティのある希望として姿を現すであろう。

 山本 圭著「現代民主主義」を読んだ。本書は、20世紀から21世紀にかけて論じられてきた、民主主義の概念の変遷を記述したものである。指導者、競争的多元主義、参加、熟議と闘技、輪番制、ポピュリズム等々、民主主義には様々な形容詞が付され、民主主義についての構想は収拾がつかないほど拡がっている。

これは、現実の民主主義にただ一つの正解やゴールのような到達点がないことを示すものである。そのため、今の民主主義がつねに不完全であると認識するとともに、将来のいつかの時点で完全な民主主義が実現されるという甘い期待を抱くべきではない。たとえば人々の意見が完全に一致したり、民意が過不足なく代表されることは、今後も起こりそうにない。

20世紀初頭に現れた「指導者民主主義」は、大衆社会を導く強力な政治指導者の必要を説くものである。ウェーバー、シュミット、ケルゼンの思想を中心に、民主政治と指導者の関係を考察している。

シュンペーターの競争型エリート主義は、政治家を選出する選挙の意義を強調したことで、私達に決定的な影響を与えている。ダールは、シュンペーターの「競争」のアイデアを「多元性」へと置き換えることで、シュンペーター・モデルを人口に膾炙させることに貢献した。これにより、「シュンペーター=ダール枢軸」ともいわれる強固な磁場が完成を見ることになる。

1960年代以降に興隆した参加民主主義の潮流では、政府や社会に異議申し立てをする人々という新しい現実に応答する理論が求められた。そこでキャロル・ベイトマンとC,Bマクファーソンの著作、および公共性をめぐる政治思想に着目し、政治をエリートから市民に取り戻そうとした理論的動向を明らかにする。

現代民主主義論で最も盛んに議論されている熟議民主主義を取り上げる。熟議の理論は、デモクラシーを「意志」の代表ではなく、「理性・理由」の代表ととらえることで、対話やコミュニケーションに基づく民主主義を構想している。ここでは、熟議民主主義の対抗者である闘技民主主義と対比させながら、この議論の意義を検討する。

現代思想のなかの民主主義をみるために、デリダ、ランシエール、ラクロウといった思想家らの議論を取り上げ、政治学とは異なるアプローチからデモクラシーの可能性に迫る。

20世紀の民主主義論は様々な仕方で展開され、互いに相容れない見方もあるが、それらは民主主義という多面体の結晶に異なった入射角で光を当てていると考えるべきだろう。本書は、この多彩なプリズムのなかで民主主義をとらえ直し、21世紀の民主主義を描き出す試みである。

20世紀の終わり頃から、民主主義論で熱心に交わされた熟議/闘技パラダイム論争のあとの、21世紀の民主主義の展開としていくつかの潮流を紹介する。
エストランドなどによる「認識的デモクラシー」は、人々が認識的機能を行使することによって、民主主義がよりよい決定を導くことができるとする議論であり、一般市民の知性を肯定するものと言える。

「ステークホルダー・デモクラシー」は、政治参加の要件を国家や地域社会への所属に求めるのではなく、そのイシューの「ステークホルダー」であるかどうかによって考えるものである。ステークホルダーとは、株主、従業員、消費者、さらには地域社会など、いわば企業に対する利害関係者のことである。

この理論で重要な意味をもつのが「被影響利害原理」である。これは、決定事項から影響を蒙る人こそが決定に参加する権利を持つべきであるという考え方であり、この理論の根本原理と言ってもよい。しかし、「被影響性」や影響の「不確定性」の解釈、ステークホルダーの「発言力」の配分方法などが問題になる。

「ケアの倫理」は、他者に関心を持ち、相互に依存した関係を前提にした人間関係を求めている。リベラリズムが想定する自立した主体像は、ケアを必要とする「依存する存在」を排除してきた。ケアの倫理はこれを批判する。ケアの倫理にもとづいた社会の構想は、リベラリズムの原理に依拠してきた自由民主主義に大きな挑戦を突き付けている。

21世紀の民主主義の展望として、国会や議会だけが政治の場所ではないし、指導者や政治家だけが民主主義のアクターではなく、選挙だけが政治参加のすべてではない点が重要である。民主主義を狭い了見から解放し、一層日常にリンクした活動として評価し、市民一人ひとりの役割を再確認するものである。

民主主義の困難は、新しい民主主義の発想が生まれるきっかけでもあった。言い換えれば、民主主義の危機は民主主義によって克服されてきたのである。従って、21世紀の民主主義の構想は、現在の危機を前に踏みとどまり、事態をつぶさに観察できるかどうかにかかっている。それがどのような形をとるのか、その見取り図は、まさに私たち自身のこれからの課題だろう。

 松宮敏樹著「こうして米軍基地は撤去された」を読んだ。本書は、フィリピン上院による在比米軍基地撤去の決定(1991年9月16日)という歴史的事件とその背景をまとめたものである。本書で強調されているのは政治家の姿勢である。フィリピンの上院議員多数は、米軍基地がフィリピンの主権を侵害し、自主的平和的な外交への妨害物だと主張した。

日本では米軍基地撤去といえば、アメリカにたてつくとんでもない主張とみるむきがあるが、そういう考え方こそ卑屈で異常なのである。フィリピンには「AMERICA'S BOY」縮めて「アムボイ」という言葉がある。アメリカの言いなりになる政治家、従順な政治家、アメリカに魂を売った政治家という意味が込められている。これは軽蔑の言葉である。歴代の日本政府の指導者や、アメリカに言うべきことを言わない政党に、この言葉が当てはまる。

本書には、米軍基地撤去を求めたフィリピンの上院議員12人の議会演説も紹介されている。議員の率直な考え方が示されており、歴史の決定的な局面に立った彼らのギリギリの思いが込められている。正しく、威厳に満ちた、格調高く、熱のこもった言葉に感動させられた。日本の政治家とは品格が違うと感じた。

フィリピン上院の決定前に、「米軍基地を撤去したらフィリピンはつぶされる」という不安が国民の間にあった。アメリカに仕返しされて経済的に破綻する。東南アジアに「力の空白」が生まれて戦争になる―。まるでこの世の終わりがくるような様々な「不安」が掻き立てられた。日本で「安保条約がなくなったら」「米軍基地がなくなったら」として、流される宣伝とまことによく似ている。しかし、そんな不安は全く杞憂だったことが事実で立証された。

経済で言えば破綻どころか、逆に撤去後フィリピンはGDPの実質成長率をとってみても著しく伸びたのである。91年はマイナス0.6%だったが、92年は0.3%、93年は2.1%、94年は4.3%にもなった。対米輸出額も95年で撤去時より約4割も伸びた。
米軍基地がなくなったからといって、他国に攻め込まれたり、戦争が起きたわけでもない。基地撤去後、フィリピンは非同盟諸国会議の加盟国となり、アメリカ一辺倒の外交から脱却した。東南アジア非核地帯条約も、ASEAN首脳会議で調印された。

1947年に結ばれた米軍基地貸与条約の期限切れの日(1991年9月16日)までに、新比米基地条約「比米友好協力安全保障条約」が上院で批准されなければ、在比米軍基地は法的根拠のない「不法滞在者」になってしまう。新条約は米軍基地使用を2001年9月まで10年間延長し、その後の使用についても協議できるというもの。事実上の無期限延長に道を開く内容である。

フィリピン憲法によると、条約の批准には上院(本来24議席だが1人欠員)の3分の2、つまり16議員以上の賛成が必要。逆に言えば、8議員が反対すれば批准できない。1991年9月16日午後8時10分、上院議員たちの態度表明演説が終了し、第三読会での最終的な採決が行われ、反対12、賛成11で、条約は拒否された。

フィリピンの著名な歴史家、レナト・コンスタンチーノ氏は著書「フィリピン民衆の歴史」のなかで次のように述べている。「フィリピン人は、彼らの歴史全体を通じて四たび『解放』される不幸にあった。最初にスペイン人が来てフィリピン人を『悪魔の虜』から『解放』し、次にアメリカ人が来てスペイン人の抑圧から彼らを『解放』し、次いで日本人がアメリカ帝国主義から彼らを『解放』し、そして再びアメリカ人が日本のファシストから彼らを『解放』した。『解放』の後で、常に彼らは外国人の『恩人』が彼らの国を占領するのを知った」。

ここで痛烈に批判されているように「解放」とは、侵略者にとってまことに都合のいい論理である。日本では今なお、この「解放」論を持ち出して、かつての侵略戦争を合理化し、美化する勢力が存在する。

条約に反対した12人の演説の論点は次の通りである。
1フィリピン憲法違反の条約
 憲法の非核政策と米軍基地との矛盾が厳しく批判された。憲法に対する擁護意識は、日本の国会とは違う。日本では安保条約の強化に伴う「憲法違反」を追求する政党が共産党以外にない。

2国家主権を侵す米軍基地
 外国軍事基地を置くことがいかに国の主権と独立を侵すかという点についての深い認識を示す。さらに米軍基地がアメリカの防衛・軍事力投射のためにあるのであって、フィリピンを守るためにあるのではないとの認識を示す。この認識が日米安保条約を持つ日本にはないことが問題である。

3外国支配から自由な未来
 米軍基地を撤去した後のフィリピンの展望の豊かさを強調する。マセダ議員は「われわれは外国支配から自由な未来、自分自身の二本の足で誇らしげに立つ国、しみったれの金持ちのパンくずを潔しとしない国を夢見る権利を持っている」と訴えた。日本は外国支配に耽溺する人間達が国を支配している。


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