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 ジョン・ダワー著「戦争の文化(下)」を読んだ。本書は前著に引き続き、戦争を人間の文化の一種ととらえ、「戦争の文化が常に我々に付きまとうのはなぜか」という人類史的問題に取り組んだ大作の下巻である。

本書が言う「戦争の文化」とは、「選択としての戦争」すなわち先制攻撃への衝動、大国意識による傲慢、希望的観測、内部の異論を排除して戦争に走るグループ思考、宗教的・人種的偏見、他者の立場に対する想像力の欠落、説明責任の無視、無差別殺戮、拷問、虐待といったものである。こうしたソフト面とともに、ハード面ではつねに相手よりも優位に立とうとして「発達」し続ける兵器体系も含まれる。

日米戦争における米軍による空襲は、日本人に恐怖を与えるためのアメリカによるテロ爆撃であった。無差別テロは、イスラム過激派に先駆けて、英米の爆撃機が組織的に行っていたのである。多くの人命を守るために多くの人命を奪う現代戦では、人間が単なる数字に還元され、人道意識は麻痺しがちである。遠くから見るB29の姿と空襲の火災を「美しい」と感じる少年の倒錯した感覚も、戦争が生む「文化」のひとつである。

原爆投下はアメリカによるテロ爆撃の頂点であり、ソ連とアメリカ国内の共和党に向けた政治的行為でもあった。原爆製造と投下決定に携わったアメリカ人の逡巡と苦悩。巨額をつぎ込んだ科学と国力の達成を現実の破壊によって実証したいという願望。巨大な破壊によって、自分たちが神のような力を持ったという絶頂感。こうした合理的のようでありながら同時に野獣的な人間性にまで考察は及ぶ。

戦争の継続として行われた軍事占領は、国家建設のプロセスでもあったが、失態に終わったアメリカのイラク占領に比べて、日本占領は国家建設の成功例として語られることが多い。しかし本書によれば、日本占領にもマイナス面があった。例えば、「平和に対する罪」や捕虜虐待などの日本の戦争犯罪は裁判にかけられたが、訴因や手続きの正当性をめぐって、今も議論が絶えない。

また、戦勝国は何十万人という日本兵の帰国を遅らせ、強制労働や戦争に使役した。こうした問題について、その後の国際法は見るべき発展を遂げなかった。そのため、イラク戦争や米軍による捕虜虐待に対しても、国際法による規制は弱いままとなった。もともと近代国際法は、「非文明人」に対する無差別殺戮を規制の対象にしていなかった。戦争を規制すると同時に許容し、包括的だが実効性の乏しい現在の国際法は、「戦争の文化」の一部ということになるだろう。また、日本の軍事占領もイラク占領も、アメリカの軍事拠点の確保の手段とみなされた。

日本を占領した当時のアメリカと、イラク戦争に突入した21世紀のアメリカでは、どちらも表面では「自由と民主主義」というレトリックを使っているが、意思決定のあり方も実際の行動も、ずいぶん変わってしまった。戦後アメリカは、いわば自身の戦争の文化によって自国の「国家建設」を行ったともいえよう。

このようにみると、戦争の文化に気づかせるために歴史は繰り返しているかのようである。そこからの出口の光は鈍い。東アジアや南アジアが欧米のインパクトによる受難を自力で克服してきたのに対して、イスラム世界では同じような歴史をいまだにテロ犯罪の正当化に用いている。

だがそれでも、著者はその光を見出そうとする。一つの光は、宗教や文化の違いを超えて、人類共通の理想を語る言葉が確かに存在することである。無差別テロを理論化したイスラム学者にも理想への憧れがあるし、神、平和、共存など、キリスト教とイスラム教に共通する言葉もある。そこに対話と相互理解の糸口もありうる。

そしてもうひとつの希望の光。著者は、アメリカに比べて日本には反戦の文化が根を張っているという。日本では、二度と戦争への扇動に「騙されない」という感情が一般的である。そのうえで、日本は多元的な価値が許容され、人々は旧敵国との友好にも抵抗を示さない。
「戦争の文化」の自覚がないために愚かな戦争が繰り返されるのだとすれば、「戦争の文化」の自覚による「戦争の文化」からの脱却のプロセスがすなわち「平和の文化」なのであり、本書はそのためのパイオニア的な歴史研究であると言えるだろう。

















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