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 斎藤幸平編「コモンの自治論」を読んだ。戦争、インフレ、気候変動など、様々な困難が折重なって、一筋縄では何も解決しない危機の時代に突入している。資本の終わりなき利潤獲得が、地球という人類共通の財産=〈コモン〉を痛めつけたせいで、もはや地球環境は修復不可能な臨界点に近づいている。その帰結が、「人新世」の複合危機だ。

「人新世」の危機が深まれば、新自由主義の楽観的考えは終わりを告げ、大きな国家が経済や社会に介入して、人々の生を管理する「戦時経済」に変わり、資本主義の危機となる。そして民主主義の危機をも引き起こし、全体主義が到来する。
こうした最悪の事態を避けるために、「コモン」の再生、共同管理を通じて「自治」という道に進む必要がある。

本書は、七人の執筆者がこの困難な時代を認識したうえで、「自治」の力を日本社会で取り戻すためのヒントを提示しようとしたものである。ハーバード大学の政治学者エリカ・チェノウェスによれば、3.5%の人々が立ち上がることで社会は変わる。その第一歩を、私達は今こそ決意して、踏み出すべきである。

しかし、「自治」について考えようとする時に直面するふたつの困難があった。一つ目は、「自治」が大切だと言われても、自分たちの手で社会を変えられるという道筋を具体的に思い描くことが難しいという問題。そもそも「自治」をするための力を私たちは失ってしまっている。このことは、面倒な政治の意思決定は、AIやアルゴリズムに任せてしまえばいいという「無意識データ民主主義」の改革提案が注目されていることからもわかる。

もう一つは、どにような「自治」を目指すべきなのか、定義するのが難しいという問題。例えば、カルト宗教団体や陰謀論の政治団体、排外主義の差別団体も自治組織と言えなくはない。つまり、「良い」自治と悪い「自治」を区別する必要があるが、その基準とは一体何なのか。

私達が、社会や政治について投げやりで無関心な存在になった原因として、資本主義による「包摂」の問題が重要である。つまり、生産の「構想」が資本の側になり、労働者は、資本の「構想」に沿って出される命令を「実行」するだけの受動的な存在になっていく。この「構想」と「実行」の分離がもたらす労働者の馴化は、産業革命以降の資本主義の発展を見つめていたマルクスが危惧していた事態である。

この「包摂」は生産の次元に留まらない。資本の支配が私たちの内面にまで及び、貨幣や商品に振り回される生活を当たり前のこと、望ましいこととして、内面化していく。これが「魂の包摂」である。つまり、資本主義のライフスタイルを積極的に受け入れ、その枠内で、自分の利益や効用を最大化しようとする人が増えていく。

資本主義的なコスパ思考を続けていくと、究極的には、コミュニティや公共の問題などを考えるのは無駄な行為でしかないという結論になり、公共的な関心が失われていって、民主主義の危機を増幅していく。反緊縮派が重視する「上からの改革」では「構想」と「実行」が分離されたままで、民主主義や「自治」に必要な私たちの能力は回復しない。それどころか、「上から」の改革を効率よく推し進めるために、民主主義は犠牲にされ、最終的には自由や平等が今よりも失われてしまう危険性がある。

国政選挙ばかりを重視する政治主義は、政党政治をさらに保守化し、コスパ思考を自明視すれば、社会運動の現場さえも保守化していき、NPOやNGOが「行政の下請け化」していく。また、個人投資の推進によって、大企業の株価が維持されることが多くの有権者の関心事となり、国民は保守化している。そして、社会の価値観を変えようとする社会運動は「過激」として排除されていく。

制度や政策をいじっただけでは社会問題は解決しない。制度や政策は、人々の規範意識によって形成され、運用される。だから、いくら「上から」の改革があっても、現場の運用が変わらないなら、人々が救われることは決してない。「自治」をする能力が市民社会の側に欠けたままでは、何をやっても事態は改善しない。重要なのは、権利を要求する社会運動の方が力を持つこと。つまり、「下から」の変革のためには、一人一人の「自治」の力を養うことが欠かせない。

マルクスは、トップダウン型の法制度改革を「法学的幻想」だと批判し、「下から」の変革を重視した。具体的には、「自治」を育むボトムアップ型の組織「アソシエーション」を広げていくことが、社会を変えていくための基礎だと考えた。この考え方を参照すると、資本主義を批判した20世紀型の左派運動の限界がどこにあったかもよくわかる。

20世紀の左派による社会変革構想の特徴は、垂直的で中央集権的な組織原理を前提にしていた。そのため、一部の特権層やマジョリティの関心や利益ばかりが優先される、非民主的なシステムが支配的になっていき、その結果として、社会主義や福祉国家への批判が強まっていった。これを利用して、新自由主義が「自由」や「民営化」を打ち出し、支持を広げていった。しかし、過剰な市場競争や民営化を招き、「魂の包摂」が進み、コミュニティは解体され、さらに市民の「自治」の能力が奪われていった。

21世紀の新展開としては、水平的ネットワーク型の社会変革がある。2011年、リーマンショック後の格差社会の下で、世界各地で市民たちによる座り込みの抗議活動が始まった。「ウォール街占拠運動」は旧来の垂直型の運動を批判し、水平的ネットワーク型の運動を展開しようとした。そして、「ブラック・ライブズ・マター」、「フライデーズ・フォー・フューチャー」、「エクスティンクション・リベリオン」、「エンデ・ゲレンデ」と続く。

しかし、ウォール街占拠運動に対して批判もある。一つ目は、運動の中心になっていたのは、経済的・時間的な余裕のある人々で、掲げたスローガン「99%]の中に存在している格差を不可視化していたというもの。二つ目は、直接民主主義の過剰な理想化に対する疑問である。つまり、小規模の直接民主主義は、グローバル資本主義という巨大な敵を相手にするには意味がないと。三つ目は、水平的な運動ではバラバラな意見を取りまとめることができず、結局、資本主義に代わるような新しい仕組みを提示することもできないと。

ウォール街占拠運動の後、社会運動の側も新しい形を模索するようになっていく。ネグリとハートも自分たちの立場を変更し、著書「アセンブリ」で、リーダーの下で「制度化」や「組織化」を行う必要性を認めるようになる。つまり、資本主義を変えるためには、法制度の変更が必要だし、そのためには、大衆の組織化が求められるという。

ただし、20世紀型の民主集中制のように、指導者が長期的な「戦略」を練り、命令し、大衆運動がそれに追従しながら、現場の短期的「戦術」を担うという上意下達の関係ではなく、大衆の方が先に「戦略」を考え、政治家やリーダーたちがそれを実現させる「戦術」を考えるという「逆転」の方法である。

本書に示す具体例では、岸本聡子の東京都杉並区の区長選挙がある。先に市民が作った政策集があり、これが「戦略」にあたる。一方、「戦略」をいかに実現させていくかという「戦術」は、区長となった岸本が担う。重要なのはあくまでも、主導権が大衆の側にあるということ。逆に、指導者はその時々に担ぎ上げられる存在に過ぎない。

最近では、ヨーロッパを中心にして、都市や市民の国際的ネットワークを形成するようになった。スペインのバルセロナでは、「バルセロナ・エン・コムー」という市民プラットフォームが立ち上がり、アダ・クラウという社会活動家が2015年には市長として当選するまでになった。これが「ミュニシパリズム」(地域主権主義)と呼ばれる動きである。上述の岸本聡子の杉並区長当選は日本でのミュニシパリズムの具体例である。

ミニュシパリズムは、いきなり国政選挙を目指して国のあり方を変えるのではなく、まずはローカルな自治体を変えようという動きと言える。地方自治体程度の規模であれば、市民たちの意見も反映されやすい。それに、自分たちの暮らしや地域の問題を解決するのであれば、むしろ自治体における議会や首長の方が大切なわけである。そして自分たちのなかから立候補者を選び、地域を変えていこうとする動きが台頭していく。

















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