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 ジョン・W・ダワー著「戦争の文化(上)を読んだ。本書は、日米戦争、イラク戦争などを通じて、理性とはレベルの異なる巨大な要因が、開戦の決断や戦争の遂行方法に影響を与えるという事実について考察したものである。

アメリカはイラク戦争で自分に都合の良い思考、内部の異論を排除し外部の批判を受け付けない態度、過度のナショナリズム、敵の動機や能力を過小評価する上層部の傲慢といった「戦争の文化」に陥った。戦争の文化のもう一つの側面は、文化的・人種的偏見が付きまとうことである。日米戦争がそうであったし、朝鮮戦争でもベトナム戦争でもアメリカは、相手に関する既成の観念にとらわれて行動し、失敗した。

第二次世界大戦において、英米は無差別テロ爆撃を標準的作戦にした。敵の戦意を削ぐために、人口が密集する都市域を意図的に破壊するというという方法は、ドイツと日本に対する空襲において頂点に達した。非戦闘員の大量殺害は、総力戦の時代における心理戦に不可欠であるという理由で正当化された。

われわれ人類が暴力と大量破壊を止めない理由は、戦争計画の立案者や政治分析の専門家が思っているよりも複雑で深刻である。この複雑さと深刻さを見落とすと、危険が待っている。

アメリカ政府には深刻で意外な情報活動の不手際、すなわち戦略的愚行が存在したし、それは真珠湾の場合と比肩するものでもあった。1941年に日本が行った攻撃と同様、対イラク開戦は戦術的にはアメリカ好みの華麗なものであったが、戦略的には暗愚であった。日本もアメリカも、敵の心理や能力を考慮に入れなかった。リスクを予想したり、最悪の場合に備えたり、一貫性と現実性のある戦争の終わり方を構想したり、紛争が長期化した場合どうするか計画しなかったことも、アメリカのイラク戦争は日本の真珠湾攻撃と共通している。

「群れ行動」や「グループ思考」は、イラク戦争が泥沼に陥り、戦争遂行の責任者たちばかりでなく、議会やマスコミの主流やブッシュを2004年11月の選挙で再選した有権者を支配した。この種の「群れ行動」は、きちんと機能している民主主義国家、とりわけゆるぎなき個人主義を誇る国家ならば、本来起こるはずのないものである。

1941年の東京と9.11後のワシントンでは、政策決定のプロセスに思ったほどの違いはない。両者が似ているのは、「民主主義」への信念と、法律を侵してでも平然と行政権を肥大させてそれを行使しよう躍起になる「帝王的大統領制」との矛盾である。そして帝王的権力がどう行使され悪用されるかは、政治に沈黙している階級や大衆にも依存する。

天皇は政策決定を認可し形式的に正当化する存在であった。大臣閣僚は天皇というカリスマを利用していたわけだが、これはワシントンの指導的政策作成者たちが大統領のカリスマを利用するのと同様である。天皇制と帝王的大統領制は、権威と権威主義、有能と無能、責任と無責任、そして前代未聞の結末をもたらす重大な瞬間についての説明責任の不在という、いまだ答えのない問題を我々に突き付けている。

戦争の聖性と傲慢は、自画自賛からくる致命的な不遜であり、かつアメリカが、彼我の軍事力に圧倒的な格差があると思ったことからくる、特異な自信であった。そして悪と悲劇、ダブルスタンダードと偽善という要素は戦争の文化を理解するうえで欠かせないもののようである。

第二次世界大戦でアメリカが大量破壊のための兵器を開発・使用し、敵国の士気を破壊するために非戦闘員を無差別に標的にしたこと、第一次世界大戦以降の中東における欧米諸国の所業。これらに加えて非対称な戦争、反逆とプライド、傲慢と怠慢の結果が自分に跳ね返り、泥沼化し、計り知れない苦痛と危害をもたらすこと―――。第二次世界大戦が残したこうした具体的な教訓が、すっかり消し去られたのであった。

俗界の聖職者たち、群れ行動、自分に都合の良いデータ集め、危機予測における無能、合理性を装った希望的観測、歴史と現状に関する想像力の異様なほどの欠落、不透明性、説明責任の無視、そして単なる常識の欠落、こうした事態の「収斂点」は、一方では、一見現実的で合理的な思考をするように見える戦争屋たちが引き起こす「愚者の無駄骨」と、他方では、複雑な「道具」と飛び抜けて洗練されたコンピュータを持った金儲け屋たちが欲しがる「愚者の黄金」という、二つのものの重なりあいであった。

















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