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 新原昭冶著「密約の戦後史」を読んだ。戦後、日本を米軍の核戦略拠点・核戦争基地として利用するアメリカの政策に、歴代の自民党政権は、表向きは「非核」を口にしながら、実際は追随と協力を重ねてきた。そして四つの核密約によってその事実を隠そうとしてきた。1「日米核密約」、2「第二の核密約」、3「小笠原核密約」、4「沖縄核密約」である。

密約による隠蔽が必要だったのは、日本国民の「原水爆禁止」と「核使用反対・核持ち込み拒否」の世論と運動を、日米両政府が強く警戒していたからである。この根強い非核世論がアメリカの核兵器配備政策に対する歯止めにもなってきた。しかし、アメリカ政府は唯一の被爆国・日本を核戦争基地に変えるため、厳重な秘密政策をとりながら、各戦略と一体の日本国内への核持ち込みを執拗に追及してきた。それが「日本型核持ち込み方式」とも呼ぶべきやり方である。

核兵器を積んだ米軍艦の常時的寄港によって「格の一時的な持ち込み」(トランジット)を慣習化して継続しながら、他方で、世論の抵抗を何とか抑え込んで「核の常時配置」(イントロダクション)の実現をも追及するという、二段構えの方式である。
一方、日本への核持ち込み疑惑を決定的に裏付けるラロック証言の衝撃への反応として、いかなるかたちでも核兵器を持ち込ませるなという動きが、自治体関係者を含め国民の間に広がった。その重要な表れの一つが、「核兵器を積んだ艦艇の神戸港入港を一切拒否する」という、1975年3月18日の神戸市議会の全会一致決議とそれに基づく「非核神戸方式」である。

アメリカ政府の核兵器の所在を「否定も肯定もしない」政策の破綻を促進したのは、核を積んだ艦船の寄港に対する各国での反対のひろがりであった。とりわけ、「非核証明」なしには外国艦船の寄港を認めないとする政策を、日本の神戸市当局やニュージーランド政府が実施し始めたことは、決定的な痛手となった。

日本での非核自治体づくりの運動や核持ち込みの追求は、自民党の懸命の抵抗にもかかわらず全国に広がっていき、非核宣言を行った自治体は、1980年以前が11であったのが、1980年代に入って増え始め、1990年までに計1787自治体、2001年までに2600自治体に達した。これは全自治体数の4分の3を越す、とてつもない数なのである。

世界各国でもアメリカの核を積んだ艦船や航空機の立ち寄りが批判の的となり、1991年9月27日に、ブッシュ大統領(父)が戦術核兵器の海外からの引き上げ政策を表明。それによって、空母や巡洋艦、攻撃型原子力潜水艦などに常時積んでいた核兵器を、「平時」には積まないことになった。また、西ヨーロッパを除き戦術戦闘機や戦闘爆撃機に装備する戦術核爆弾を、「平時」には外国から撤去することにした。これと併せて各砲弾など陸軍のいわゆる戦場用核兵器を全廃した。

この戦術核兵器の海外からの引き上げの本質は、核兵器の配備形態を常時配備型から有事持ち込み型に変えたに過ぎない。そのためにアメリカ政府は「否定も肯定もしない」政策をとっていたわけである。アメリカ本国に持ち帰ったこれらの戦術核兵器を「中央地域」すなわちアメリカ本土に保管し、「有事」には再び海外に配備するのである。
こうして、海外へのアメリカの核兵器配備政策は、先制核攻撃政策、そのための有事配備、その全容を隠す「核の所在を否定も肯定もしない」秘密主義という、三本柱からなっているのである。

非核三原則厳守・核密約破棄・日本の非核化の実現を推進する新たな機運と世論をひろげることは、速やかな核兵器廃絶実現への取り組みと一体の重要な動きとなるだろう。それは、対米従属の日米軍事同盟から脱して、我が国が唯一の被爆国にふさわしく非核・平和の自主的な道へと進むことにもつながるはずである。

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吉田茂による秘密裏の安保条約調印をはじめとして、岸信介による安保条約改定。安倍晋三による秘密法・戦争法・共謀罪法・モリカケサクラまで、戦後の歴代自民党政権は、対米従属政策を推進するうえで不都合な事項は密約によって国民の目から隠蔽し、国会では虚偽答弁で国民をだまし続けてきた。これが自民党の本質であり変わることはないだろう。つまり、自民党政権が続く限り国民は騙され続けるということであり、一般国民にとってよりよい社会がもたらされる可能性はないのである。それは戦後の歴史が証明している。

















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