白井聡著「『戦後』の墓碑銘」を読んだ。本書は、「週刊金曜日」連載のコラム原稿、さまざまな媒体に書いた時事論的論考、「戦後」というテーマに関連する解説論文などをまとめたものである。前著「永続敗戦論」よりも端的な表現で、迫りくる危機と対処について記述している。

5 国体をめぐって
 1942年6月のミッドウエー海戦での敗北により、対米戦の軍事的勝利の可能性が消滅し、1943年11月にはカイロ宣言が出されて降伏要求が突き付けられたが、1945年8月まで戦争は継続された。その理由はひとえに「国体護持を実現しつつ降伏するにはどうすればよいのか」という難問をめぐって戦争指導層が逡巡を続けたことにあった。そのため、大戦での犠牲者300万人のうちの過半がこの間に落命している。
「国体護持」とは「国家指導層がいかなる手段をもってしても自己保身を図る」ということである。

放射能によって人々の生活を破壊し国土を傷つけても、恬として恥じることなく、原子力利権の存続のために原発依存を続け、あまつさえすでに実質的に破綻している核燃料サイクル事業をやめることすらしない。あるいはTPPによって、産業の多様性や諸々の安全、国土の田園等々、有形無形の国富を多国籍資本に売り飛ばす。これらの行為は、自己保身のために膨大な数に上る国民を死に追いやった連中の後継者たちによってなされているとみるならば、驚くべきどころか、当然のやり口ではないのか。

1948年12月、巣鴨プリズンから釈放された岸信介が真っ直ぐに向かった先は、靖国神社などではなく、当時官房長官を務めていた実弟佐藤栄作の執務室であった。慰霊、鎮魂、悔悟といった心境の素振りすら見せず、戦後社会を指導する役割が彼に再び割り振られていることを、岸は自明視していたと思われる。こうした人物の末裔であることを誇りとする人物が、宰相として「戦後レジームからの脱却」を絶叫している。その追及は、永続敗戦レジームに内在する矛盾を激化させ、それをおそらく破局的な形で破壊することになるだろう。

6 日本は近代国家なのか?
 安倍首相の米議会演説は、異様なまでに情緒的で、あたかも日本国家とは米国の傀儡であるかのような印象を与える。訪米直前に発表された「日米防衛協力新ガイドライン」は、地球上のどこまでも米軍の活動に自衛隊を附いて行かせることへ道を開くものであった。かかる巨大な贈り物に対する米国からのお返しは、相変わらずの空手形である。ガイドラインに島嶼防衛規定が書き込まれたが、「尖閣諸島は日米安保条約の適用範囲内」という見解は、米高官やオバマ大統領が明言しており、何も新しいことはない。かつ、新ガイドラインでは、この取り決めが両国政府に何らの「法的権利または義務を生じさせるものではない」ことが明言されている。つまり、尖閣諸島で日中軍事衝突が発生しても、米軍は自動的に日本側に立って参戦するわけではないということである。

新ガイドラインから安倍演説に至る過程で、われわれが受け取ったのは、「安倍首相が満足したこと」以外には何も見当たらない。つまり、「国益上の犠牲」と「安倍の私益」が事実上等しいものとして交換されたのである。
とはいえ、この交換を異様なものとみなしうるのは、日本が近代国家であると仮定した場合のみである。専制国家では、国民は権力者の私的所有物に近く(個人の人格の不可侵性も人権の観念も存在しない)、法は権力者の気持ち次第でどうにでもしてよい。してみれば、日本は近代国家であるとの仮定を取っ払ってしまえば、今日の事態に何も不思議なところはない。

この現実が見えづらくなっているのは、支配者が専制君主というわかりやすい形ではなく、政官財学メディア等至る所に巣食う巨大な対米従属利権共同体になっているためである。今日の事態は、国民が臣民なのか市民なのか曖昧であった明治レジームが、敗戦にもかかわらず「国体護持」されたこと(戦前支配層の権力維持)の帰結である。戦前と戦後の違いは、「天壌無窮の国体」に代わって「天壌無窮の日米同盟」があることにすぎない。

7 奴隷が奴隷であることをやめるとき
 戦後日本は民主主義を国是とする、ということに一応なっている。その日本社会で腑に落ちないことはいろいろあるが、二つほど挙げてみる。
まず、東京電力という会社が今も存在していること。あれだけの惨事を引き起こしながら、同社の誰も刑事罰を受けていない一方、福島県からの自主避難者に対しては雀の涙程度のカネしか払わない、と堂々と宣言し、かつ原発も再稼働させたいという。たとえて言えば、1945年の敗戦後にも、大日本帝国の陸海軍が「私らはちっとも悪くありません」とばかりに存在し続けているようなものだろう。

二つ目は、安倍内閣の支持率が依然として5割近くもあるという事実。集団的自衛権の行使容認をめぐる首相の説明はお粗末極まるものだった。米軍は邦人の救出作戦をやるつもりはないと意思表示しているにもかかわらず、首相は、米国が救助輸送しているときの攻撃に対処するために、集団的自衛権の行使容認が必要と説明した。
この国の政治・経済の支配層が、ここまでナメ腐った振舞をできるのは、国民が怒らないからであろう。もちろん怒る人もまれにいる。だが、この国の大衆の最大の娯楽の一つは、こうした正当にも腹を立てる人、侮辱を許さない誇り高き自由人を、からかい嘲ることだ。なるほど、奴隷のなけなしの楽しみとは、主人に反抗して痛い目に遭うほかの奴隷を辱めることであるに違いない。民主主義の主人は、本当は当事者たる国民自身のはずだが、どうも、この国民は自分たち以外に主人がいると信じているようだ。

















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