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 デヴィッド・ハーヴェイ著「資本の〈謎〉」を読んだ。本書は次の三つの次元に即して恐慌を解明しようとするものである。第一に最も直接的で最も表層的な次元、即ち異常なまでに発達しグローバル化した金融化と証券化の手法、生産に向かわずに株や各種金融商品や不動産への投機に回った膨大な過剰資本、高度な数式モデルに基づくリスク評価と複雑なリスク分散の手法等々である。第二にこれらの起源を解明するための新自由主義化と金融資本主義化、そしてアジア諸国の経済成長と冷戦の崩壊を伴う資本のグローバリゼーションである。第三に資本主義そのものに、強力な恐慌傾向、投機的傾向が内在しているのなら、それ自体を解明する最も根底的で普遍的な次元である。

2008年金融恐慌の究極の根拠が資本の運動そのものに内在する種々の制限/障壁にある。資本は物ではなく絶え間なく運動する一個の過程であり、流れである。その全体としての流通ないし循環の過程の各結節点において、その流れを妨げる固有の閉塞ポイントが存在する。資本の流れは大きく三つの部分に分かれる。第一は、生産過程を開始する準備段階としての貨幣資本の集積である。現代においては、その集積過程において信用が決定的な役割を果たす。従って貨幣資本の集積が一つの制限となりうる。

第二は資本の生産過程そのものである。生産を開始するには集積した貨幣資本で生産手段と労働力を入手しなければならない。生産手段の購買は資本を「自然との関係」という厄介な問題へと巻き込む。つまり、自然そのものの限界が資本の限界として現れる。労働力の購買は、旧社会秩序の解体や相対的過剰人口の創出、労働力の地理的移動といった問題へ連結する。さらに、生産過程の内部においても種々の制限が存在する。一つは、資本主義的生産にふさわしい技術と組織形態の確立という問題がある。二つ目に、その過程内部における唯一の主体的存在たる労働者に対する統制という問題がある。

第三は、その生産過程から再び出てきた資本が自己の価値を市場において実現する過程である。ここでは、有効需要と市場問題が重大な制限として登場する。

これらの制限/障壁が深刻に資本の流れをせき止めれば、恐慌となって事態は爆発する。資本はこれら種々の制限を絶えず克服するか回避しようとする。しかしこれらの克服ないし回避は、別の制限、別の障壁をつくり出す過程でもある。現実の貨幣資本を集積することの困難という制限を回避するために信用創造やレバレッジが用いられるなら、それ自体が処理に困るような膨大な擬制資本が形成される。

労働力確保の困難や労働者の反抗という制限を回避するために、労働節約型技術が採用されれば、それは大量の失業をつくり出し市場問題を悪化させる。現実の生産過程に伴う多くの制限をすべて回避しようとして、不動産や金融商品へと資本が流れるが、それは投機的熱狂をもたらす。市場問題を回避するために、(生産的消費と個人的消費において)借金を通じた架空の需要が大量につくり出されれば、それはまさに2008年の金融恐慌に見られたような事態を準備する。

このように、資本のうちには、恐慌を誘発しうる多くの制限が存在するというだけでなく、それらの制限を回避する各々の努力それ自体にも恐慌を誘発する別の制限を(場合によっては、回避しようとした制限以上に大きな制限を)つくり出す傾向が本質的に備わっているのである。

このような内在的諸限界を持つ資本は、「終わりなき資本蓄積」と「永続的な複利的成長」という基本原理が一個の体制ないしシステムへと(つまり資本主義として)成長転化する過程で、必要不可欠な七つの「活動領域」が複雑に相互作用しあいながら一個のシステムへと共進化していく。その七つの「活動領域」とは、生産過程、技術(および組織形態)、日常生活の再生産(人口の世帯的再生産を含む)、社会的諸関係、自然との関係(「第二の自然」との関係を含む)、世界に関する精神的諸観念、社会的・行政的諸制度である。

資本主義は、新自由主義的反革命によって、金融恐慌に見られるようにその本来の野蛮な姿を露にしつつある。なすべき課題は、この剥き出しの資本主義に再び社会的・経済的公正や福祉国家というイチジクの葉を付けることではなく、資本主義そのものを克服することである。つまり、極めて困難な課題であるが、資本主義のシステムそのものから離脱する必要があり、世界各地で芽生えている反資本主義運動が注目される。

その際、先に明らかにした「七つの活動領域」を横断し、それらの各領域の変革と相互作用しながら全体としてのシステムを変革していかなければならず、この過程を「共-革命的」過程と呼ぶ。その担い手としては、二つの資本蓄積様式(「拡大再生産による蓄積」と「略奪による蓄積」)による搾取、略奪、排除の被害にあう人々を変革主体として想定する。これらの諸主体内部および諸主体間の同盟を構築することが決定的な鍵となる。

 ジョン・ダワー著「戦争の文化(下)」を読んだ。本書は前著に引き続き、戦争を人間の文化の一種ととらえ、「戦争の文化が常に我々に付きまとうのはなぜか」という人類史的問題に取り組んだ大作の下巻である。

本書が言う「戦争の文化」とは、「選択としての戦争」すなわち先制攻撃への衝動、大国意識による傲慢、希望的観測、内部の異論を排除して戦争に走るグループ思考、宗教的・人種的偏見、他者の立場に対する想像力の欠落、説明責任の無視、無差別殺戮、拷問、虐待といったものである。こうしたソフト面とともに、ハード面ではつねに相手よりも優位に立とうとして「発達」し続ける兵器体系も含まれる。

日米戦争における米軍による空襲は、日本人に恐怖を与えるためのアメリカによるテロ爆撃であった。無差別テロは、イスラム過激派に先駆けて、英米の爆撃機が組織的に行っていたのである。多くの人命を守るために多くの人命を奪う現代戦では、人間が単なる数字に還元され、人道意識は麻痺しがちである。遠くから見るB29の姿と空襲の火災を「美しい」と感じる少年の倒錯した感覚も、戦争が生む「文化」のひとつである。

原爆投下はアメリカによるテロ爆撃の頂点であり、ソ連とアメリカ国内の共和党に向けた政治的行為でもあった。原爆製造と投下決定に携わったアメリカ人の逡巡と苦悩。巨額をつぎ込んだ科学と国力の達成を現実の破壊によって実証したいという願望。巨大な破壊によって、自分たちが神のような力を持ったという絶頂感。こうした合理的のようでありながら同時に野獣的な人間性にまで考察は及ぶ。

戦争の継続として行われた軍事占領は、国家建設のプロセスでもあったが、失態に終わったアメリカのイラク占領に比べて、日本占領は国家建設の成功例として語られることが多い。しかし本書によれば、日本占領にもマイナス面があった。例えば、「平和に対する罪」や捕虜虐待などの日本の戦争犯罪は裁判にかけられたが、訴因や手続きの正当性をめぐって、今も議論が絶えない。

また、戦勝国は何十万人という日本兵の帰国を遅らせ、強制労働や戦争に使役した。こうした問題について、その後の国際法は見るべき発展を遂げなかった。そのため、イラク戦争や米軍による捕虜虐待に対しても、国際法による規制は弱いままとなった。もともと近代国際法は、「非文明人」に対する無差別殺戮を規制の対象にしていなかった。戦争を規制すると同時に許容し、包括的だが実効性の乏しい現在の国際法は、「戦争の文化」の一部ということになるだろう。また、日本の軍事占領もイラク占領も、アメリカの軍事拠点の確保の手段とみなされた。

日本を占領した当時のアメリカと、イラク戦争に突入した21世紀のアメリカでは、どちらも表面では「自由と民主主義」というレトリックを使っているが、意思決定のあり方も実際の行動も、ずいぶん変わってしまった。戦後アメリカは、いわば自身の戦争の文化によって自国の「国家建設」を行ったともいえよう。

このようにみると、戦争の文化に気づかせるために歴史は繰り返しているかのようである。そこからの出口の光は鈍い。東アジアや南アジアが欧米のインパクトによる受難を自力で克服してきたのに対して、イスラム世界では同じような歴史をいまだにテロ犯罪の正当化に用いている。

だがそれでも、著者はその光を見出そうとする。一つの光は、宗教や文化の違いを超えて、人類共通の理想を語る言葉が確かに存在することである。無差別テロを理論化したイスラム学者にも理想への憧れがあるし、神、平和、共存など、キリスト教とイスラム教に共通する言葉もある。そこに対話と相互理解の糸口もありうる。

そしてもうひとつの希望の光。著者は、アメリカに比べて日本には反戦の文化が根を張っているという。日本では、二度と戦争への扇動に「騙されない」という感情が一般的である。そのうえで、日本は多元的な価値が許容され、人々は旧敵国との友好にも抵抗を示さない。
「戦争の文化」の自覚がないために愚かな戦争が繰り返されるのだとすれば、「戦争の文化」の自覚による「戦争の文化」からの脱却のプロセスがすなわち「平和の文化」なのであり、本書はそのためのパイオニア的な歴史研究であると言えるだろう。


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