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 斎藤文雄著「多数決は民主主義のルールか?」を読んだ。一般に「多数決は民主主義のルール」とされているが、本当にそうなのか?国会でしばしば行われる強行採決を見れば、到底多数決は民主主義のルールになっていそうにない。そこで、多数決と民主主義の関係を、哲学的議論や議会での議決、多数決の限界、国民投票、国民発案、市民立法運動などを通じて考察した。
そして、多数決は民主主義の固有のルールではなく、万能でもなく、人権保障の限界があること、その限界をわきまえ多数決をうまく使いこなす必要があること、さもなければ「民主主義」を口にしつつ、強権的権威主義に転落しかねないと結論付けた。
議会制民主主義では選挙で選出された議員で組織された議会が人民の「代表機関」として、多数決で決めたことを「民意」とみなす。しかしこれは擬制にほかならず、議会は存在する民意の反映ではなく、民意を作り出す機関である。
民主主義とは人民の自己統治のことだ。これに対して多数決は多数の支配を正当化する。しかし、自由民主主義の憲法は多数の専制を抑止するため、三権分立、法の支配と人権保障を定め、違憲立法審査権を司法に付与している。これは、多数決に制度上の限界があることを意味する。
多数決の限界とは人権にある。人間が生きるために不可欠な人権を、多数決で侵してはならないということだ。ただし、その人権の範囲と保障の仕方は、時代と社会により変わらざるを得ない。
国民投票は人民自身の多数決であり、その結果は「民意」の直接的表明とされる。しかし実際には、短絡的で情動的なキャンペーンに惑わされ、民意が誤ることもある。ヒトラーは独裁を正当化するため、国民投票を好んで多用した。
国民発案・住民発案は、市民が議会に立法を促すだけで、たいていは無視されるか、ザル法でお茶を濁されるのが落ちだ。必要なのは市民立法運動だ。住民が条例案を作り、世論を喚起し、議員への多様の働きかけをし、公開討論会で条例案を議論し、マスコミに報じてもらうなどを通じて立法化することである。

 三谷太一郎著「日本の近代とは何であったか」を読んだ。本書は、英国の政治・経済ジャーナリストであるウォルター・パジェットの「自然学と政治学」における欧州近代の鍵概念「議論による統治」「貿易」「植民地」を指標として、日本近代の把握を試みたもの。

第一章は、「議論による統治」の日本的形態の成立を問題とした。日本近代化路線の様々な挫折にもかかわらず、政党政治に体現された「議論による統治」は、日本近代が達成した最大の成果と見る。

第二章は、「貿易」の問題を、日本の資本主義の形成と展開およびその特質を論じた。日本の資本主義も日本近代のもう一つの成果であった。しかし、2011年の東日本大震災による原発事故によって、幕末以来の日本の近代化路線に致命的な挫折をもたらした。すなわち、日本資本主義の基盤そのものへの疑問を突きつけ、日本近代そのものへの根源的批判を惹起した。

第三章は、日本の植民地帝国が、なぜ、いかに行われたかを問うた。植民地帝国は日本近代の最大の負の遺産である。日本は莫大な資本と時間とエネルギーとそして国民の情熱を投下して、なぜ、このような負の遺産を負うことになったのか、それは日本近代それ自体への深刻な問いである。

第四章は、近代天皇制への問いである。明治国家の設計者たちが「近代化」を「欧州化」として行おうとした際に、欧州の原点に「神」があると認識したことを前提とした問いである。彼らは、天皇が欧州の「神」に相当する役割を果たさなければならないと考えた。しかし、現実の天皇は「神」に代替できないので、天皇を単なる立憲君主にとどめず、「皇祖皇宗」と一体化した道徳の立法者として擁立した。

「文明開化」「富国強兵」というスローガンによって方向づけられた幕末以来の日本近代化路線は、もっぱら日本国家の対外強化を目的とする一国近代化路線であった。今後必要な事は、かつて日本近代化を支えた社会基盤を、様々の具体的な国際的課題の解決を目指す国際共同体に置き、その組織体を通して、グローバルな規模で近代化路線を再構築することではないだろうか。そのためには、何よりもアジアに対する対外平和の拡大と国家を超えた社会のための教育が不可欠である。


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