松村圭一郎著
「くらしのアナキズム」を読んだ。本書は人類学の視点からアナキズムをとらえたものである。鶴見俊介はアナキズムを「権力による強制なしに人間が互いに助け合って生きてゆくことを理想とする思想」と定義した。国家を打倒する革命や国家から距離をとって独自の相互扶助的な共同体をつくる試みの多くが失敗に終わってきた。
革命ですべてがひっくり返されるとき、多くの生活がその激変の中で犠牲にされる。そうした変化は持続可能でもなければ、望ましいものでもない。だからこそ、既存の国家の体制をうまく利用する。国家の中にアナキズムの空間を少しずつ広げていく。そういう意味での「保守的であること」が「くらしのアナキズム」には必要になる。
フーコーが権力を下からの実践のなかで作用するものと定義して以来、「権力」を単純に国家という特殊な制度に由来するものとは考えられなくなった。アナキズムが抵抗すべき権力は、国家だけの所有物ではないし、国家を廃絶したら、権力から逃れられるわけでもない。国家体制への抵抗に力点を置きすぎると、より身近な場で抑圧的な権力関係が生じていて、そこに自分が取り込まれている現実から目をそらしかねない。こうした危険性を意識することは、アナキズムを単に国家や政府の否定にとどまらず、あらゆる権力的なものと向き合う方法を考える視点へと拡張させるはずだ。
人類学者グレーバーは言う。ある集団が国家の視界の外でどうにかやっていこうと努力するとき、実践としての民主主義が生まれる。むしろ民主主義と国家という強制装置は不可能な結合であり、「民主主義国家」とは矛盾でしかない、と。
政治家が主権者によって選ばれ、その同意の範囲で政治的な役割を果たす。それを真の意味で実践していたのは現代の民主主義を掲げる国家ではなく、「未開社会」とされた国家無き社会だった。人々は、リーダーが集団の目標に貢献しているのか、常に関心を寄せ、そこから道を外れると、さっと同意を翻す。国家が人々を監視する監視社会とは逆に、リーダーが常に人々から監視されているのだ。
グレーバーはアナキズムを「古い社会の殻の内側で」新しい社会の諸制度を創造し始めるという「企画」であるという。それは支配の構造を解体しようとすると同時に、「民主主義的な組織化」を推進する試みだ。多数決はコミュニティを破壊しかねないやり方であり、民主主義的とは言えない。妥協点を探りながらコンセンサスに向けた調整が目指されるのが望ましい。
国や政治家よりも、むしろ自分たち生活者の方が問題に対応する鍵を握っている。その自覚が民主主義を成り立たせる根幹にある。だれもが政治参加だと信じてきた多数決による投票は、政治とやらに参加している感じを出す仕組みに過ぎなかった。
不完全な存在どうしが交わり、相互に依存しあい、折衝・交渉する。ニャムンジョは、そこにある論理を「コンヴィヴィアリティ(共生的実践)」という言葉でとらえた。コンヴィヴィアルな世界では、「改宗」を迫るのではなく、「対話」をすることが異なる者に対処する方法となる。異質なものをすべて包摂することが、その秩序の根幹をなす。このコンヴィヴィアルな対話が、国家や市場のただなかにアナキズムのスキマを作り出す起点になる。
自由民主主義を実現した社会においても、不遇な状況に置かれた少数者は選挙で代表を選んで社会を改善する術を奪われている。それは、現在の「民主主義」は常に多数派のための制度だからだ。多数派の利益を守る国家の法そのものが抑圧的な時、法の枠内でそれを改善することは困難だ。より良き生を実現するには、ときに国家の中にあってなお国家の外側に出る必要がある。
政治を政治家まかせに、経済を資本家や経営者任せにしてきた結果、ぼくらは見くびられ、やりたい放題にやられてきた。政治と経済の手綱を生活者が握り、よりよいやり方をみずから体現していく。その実践が国のやることに自信をもってNOを突き付ける根拠にもなる。
くらしのアナキズムは、目の前の苦しい現実をいかに改善していくか、その改善を促す力が政治家や裁判官、専門家や企業幹部など選ばれた人たちだけでなく、生活者である自分たちのなかにあるという自覚に根差している。よりよいルールに変えるには、ときにその既存のルールを破らないといけない。サボったり。怒りをぶつけたり、逸脱することも重要な手段になる。
誰かが決めた規則や理念に無批判に従うこと、大きな仕組みや制度に自分たちの生活を委ねて他人任せにしてしまうことはつながっている。アナキズムは、そこで立ち止まって考えることを求める。自分たちの暮らしを見つめ直し、内なる声とその外側にある多様な声に耳を傾けてみようと促す。その対話が身近な人を巻き込んでいく。「私達そんなことやるために生きているわけじゃないよね?」と。
ぼくらはときに真面目であるべき対象を取り違えてしまう。大切な暮らしを守るために、日々の生活でいやなことにはちゃんと不真面目になる。ルールや「正しさ」や国家のために一人一人の暮らしが犠牲にされる。それこそがぼくらの生活を脅かしてきた倒錯だ。ひとりで問題に対処できなくなる前に、一緒に不真面目になってくれる仲間を見つけ、そのささやかなつながりの場や関係を耕しておく。それが、くらしのアナキズムへの一歩だ。