ルトガー・ブレグマン著
「希望の歴史 上下」を読んだ。本書は希望の書である。従来の一般的考え方「人間は本来邪悪である」をひっくり返し、「人類の本質は善である」との結論を、心理学、人類史、思想史、資本主義に至るまで幅広い領域を網羅・統合する考察を行ったうえで下した。そしてこの新たな人間観に基づく世界を築くことができるかを、具体的な事例をいくつも挙げて語っていく。その視野は広く、刑務所、警察、社会保障制度、学校教育、在宅ケア組織等々を緻密に調査している。
冒頭では、無人島に漂着した少年たちの現実の物語が語られる。小説「蠅の王」では、無人島に漂着した少年たちが憎み合い、殺し合ったが、その現実版は小説とは大違いだった。少年たちは、思いやりと協力によって、一年以上、無人島で生き延びたのだ。
続いて著者は、長年にわたって冷笑的な人間観の裏付けになってきた心理学実験や報道が実は嘘だったことを次々に暴いていく。「スタンフォード監獄実験」、「ミルグラムの電気ショック実験」、「キティ・ジェノヴィーズ事件(傍観者効果)」。
また、人間の愚かさの象徴と見なされてきたイースター島の崩壊について、「歴史学から地質学、人類学から考古学まで、あらゆる分野に協力を求め」て、真実を解き明かしていく。
暗い人間観は、マキャヴェッリからホッブス、フロイトからドーキンスまで西洋思想に浸透しており、キリスト教自体、人間は罪深い存在だと説いている。ここで著者は、人類の歴史における悪の浸透の謎を、歴史と進化論と進化心理学の観点から探求していく。そして、サピエンスがネアンデルタールを滅ぼしたという通説を否定する。
しかし、人間は友好的な一方で、監獄やガス室を作る唯一の種にもなった。それは人間を最も親切な種にしているメカニズムと、地球上で最も残酷な種にしているメカニズムの根っこは一つだから。それは「共感する能力」だ。
「共感はわたしたちの寛大さを損なう。少数を注視すると、その他大勢は視野に入らなくなる。悲しい現実は、共感と外国人恐怖症が密接につながっていることだ。その二つはコインの表と裏なのである」。また著者は、現代人の苦境を、「多元的無知」という言葉で説明する。多元的無知とは、「誰も信じていないが、『誰もが信じている』と信じている状態」、つまり、裸の王様を褒めたたえた人々の状態だ。
著者は、「人間の本性についてのネガティブな見方は、多元的無知の一形態ではないのだろうか。ほとんどの人は利己的で強欲だという考えは、他の人はそう考えているはずだという仮定から生まれたのではないか」と問いかける。そうだとすれば、「最悪な人間ではなく、最良の人間を想定する」ことも可能だと、明るい方向に目を向ける。
著者は数々の実例を挙げて、それが夢物語ではないことを示す。マネージャーのいない在宅ケア組織、ルールや安全規則のない廃品置き場のような公園、宿題も成績表もない学校、税金の用途を住民が決める地方自治体、ノルウェーのリゾートのような刑務所。その刑務所長は、「汚物のように扱えば、人は汚物になる。人間として扱えば、人間らしく振舞うのです」と言う。出所後の再犯率の低さが、そこが世界最高の矯正施設であることを語る。
人間を人間として扱わないアメリカの刑務所システムがもたらす再犯率は世界最高レベルだ。また警察の「割れ窓戦略」のせいで、無実の黒人男性が警官に殺される事件が相次いでいる。こうした状況のもとを辿れば、「スタンフォード監獄実験」のフィリップ・ジンバルドを含むたった三人の学者の歪んだ考えに行きつくことを本書は明かす。そうだとすれば、逆にほんの数人でも正しいことを訴える人がいれば、社会は大きく変わるのではないか、と思えてくる。
人間の善性を裏付ける証拠として、著者は最後に、アパルトヘイト撤廃に貢献した双子の兄弟、戦場でのクリスマス、ゲリラを家族のもとに戻らせた広告戦略について語る。著者は「地球温暖化から、互いの不信の高まりまで、現代が抱える難問に立ち向かおうとするのであれば、人間の本性についての考え方を見直すところから始めるべきだろう」と言う。また、「わたしたちが、大半の人が親切で寛大だと考えるようになれば、すべてが変わるはずだ」と言う。そう考えるか考えないかは、わたしたち一人一人に委ねられている。