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 浜矩子著「"スカノミクス"に蝕まれる日本経済」を読んだ。本書は菅首相の本性を見極め、菅の経済政策・スカノミクスの構造を解析し、スカノミクスの政策項目を分類・点検し、スカノミクスを清く正しいエコノミクスと比較検討するとともに、スカノミクスから真の共助・共生の世界への歩みを呼び掛けている。

菅首相は権謀術数のマキャベリ「君主論」を信奉している。徳川家康の側近・本田正純は奸佞(かんねい)を絵に画いたような男と言われており、日本のマキャベリだといえる。「奸佞」とは「心がねじけていて悪賢いこと」を意味する。
安倍前首相は、権力を掌握して21世紀版の大日本帝国づくりを達成しようとしていたが、菅首相では、権力掌握そのこと自体が自己目的化している。

菅首相の所信表明演説と施政方針演説から読み取れるスカノミクスのショッピングリスト(政策項目的なもの)を包括点検すると、「重点項目」「義務的項目」「いやいや項目」「不在項目」の4項目に分類できる。「いやいや項目」は、全く気乗りしないが無視するわけにもいかず、やむを得ず放り込んである項目、「不在項目」はショッピングリストに登場しない項目だ。現況下で当然重点項目の中に含まれるべきなのに、どこにも出てこない項目である。

「重点項目」を目的別に分類すると三つのグループに分けられる。第1グループ:権力集約目的群、第2グループ:成長経済確保群、第3グループ:地方の自助・共助強化群である。第1グループは、1規制改革と縦割り行政の打破、2マイナンバーカードの普及促進、3広範なデジタル化の推進、4携帯電話料金値下げの4つが対応し、第2グループは、5成長のためのグリーン化推進、6成長のためのコーポレートガバナンス改革、7不妊治療への保険適用、8目指すは国際金融センターの4つに対応し、第3グループは、9脱東京一極集中(地域中堅・中小企業への人材派遣と地域金融機関の経営基盤強化、統合支援)、10観光立国再び(GoToキャンペーン)の2つに対応する。

「義務的項目」は、気乗り薄度の高い順に1社会保障、2男女共同参画、3待機児童解消、4国土強靭化の4つである。「いやいや項目」は、1最低賃金引上げ、2就職氷河期世代への個別対応、3障害者・難病者の活躍社会、4児童虐待対応、5子供の貧困対策の5つである。「いやいや項目」には、スカノミクスの感性と相いれない特性として、弱者救済性、個別性、成長非貢献性の3つがある。
「不在項目」は、1格差、2貧困、3弱者、4分配の4つで、奸佞首相の二つの演説には出てこない言葉である。

人間による人間のための人間だけの営み、それが経済活動だ。その意味するところは、経済活動は人間を幸せにできなければならないということだ、経済活動がその名に値するためには、経済活動は常に人間に幸福をもたらさなければいけない。これが大鉄則だ。ある営みが人間を不幸にしていれば、その営みは経済活動ではない。たとえいかに巧妙に経済活動に化けていても、人間を幸せにできなければ、それは経済活動ではない。シンプルな話だ。

経済合理性に適うための最も本源的な要件は、基本的人権を侵害しないこと、基本的人権の守護神であり得ることだ。原発には、人権の基盤部分である生存権を突き崩す危険性が内在している。そのようなものに経済合理性はない。
真の経済活動を営み、経済活動を基本的人権の守護神たらしめることができるのはどのような人々か、その人々には、共痛のもらい泣きができる力が備わっていなければいけないのだと思う。他者の痛みが解らない人々には、基本的人権は守れない。

経済活動は三角形であり、その三辺を「成長・競争・分配」と設定することが有効だ。また、三辺は状況によって重みが変わる。幼い離陸前夜の経済やこれまでのすべてを失った焼け跡経済では、成長に全力を傾けることが経済合理性に適う。しかし、今の日本経済は「豊かさの中の貧困」の経済だ。だから、今の日本の経済三角形において、最も強化を必要としているのが分配の辺だ。成長の辺ではない。

成長が経済政策の究極目標でないのと同様、競争力強化とか生産性向上とか、技術革新などスカノミクス好みの命題も、経済政策の使命ではない。使命を果たすための手段に過ぎない。経済政策の使命はいつも不変だが、局面によって選択すべき手段は変わる。安倍は、21世紀版大日本帝国の構築を、菅は、強権の絶対化と絶大化を下心に抱いて、経済政策そのものを手段化しようとした。

清く正しい経済政策には二つの使命がある。使命その一が、経済活動の均衡の保持と回復だ。その二が弱者救済である。両者は表裏一体で不可分の関係にある。より正確に言えば、使命その二があるから、使命その一がある。経済活動の均衡が崩れるとは、経済が極端にインフレ化したりデフレ化することを意味する。そうなると弱者の命を危険にさらす。人間は不幸になる。

清く正しい経済政策を担う善き政策責任者に必要なものは、涙する目、傾ける耳、差し伸べる手の3つと、これらに共通する「魚と蛇を取り違えない」感性である。下心の政策責任者である奸佞首相の目と耳と手は、どうも2セットあるように思う。セットその1が、スカノミクス親父の目と耳だ。セットその2がマキャベリの弟子の目と耳である。

スカノミクスセットの目は「見て見ぬふりの目」だ。弱者の痛みは見えなかったことにする。格差と貧困には目を向けない。分配政策を必要としている「豊かさの中の貧困」は視野に入れないことにする。スカノミクスセットの耳は、「聞く耳持たずの耳」だ。弱者の声は聞こえない。自助力無き者の訴えには耳を傾けない。自分の意に沿わない意見は聞き捨てる。気に食わないことが耳に入ってこようとすると「指摘には当たらない」とブロックしてしまう。

スカノミクスセットの手は、「切り捨てる手」だ。公助を求めて伸びてくる手は振り払う。「自分はここにいる、助けて」と振り上げられた手には背を向ける。「なんとかして」と、ちぎれんばかりに振られている手は踏みにじる。

マキャベリセットの目は監視する目だ。自分に異論を唱える者、異動させるべき者、取り込むべき自助力ある者たちなどを監視し、個人情報の中に権力基盤強化に役立つこと、デジタル庁に集約したデータから読み取るべきことなどを凝視する監視の目である。マキャベリセットの耳は盗聴する耳だ。自分の悪口を言ってる者、陰謀を企んでいる者、自分に対する批判の声など、敵たちの会話を徹底的に盗み聞きする。聞き捨てならない会話をしている者たちは、徹底排除する。マキャベリセットの手は、おびき寄せる手だ。役に立ちそうな者どもを、あの手この手で自分の手元に引き寄せる。

打倒スカノミクスなりし後、我々はどんな経済社会を目指すべきだろう。それは「真の共助」の世界なのではないかと思える。真の共助が成り立つためには、そこに真の共生がなければならない。共生と共存は違う。共生には意志が必要であり、愛がなければならない。

真の共生が成り立っている時、そこに生まれる真の共助は限りなく公助に近い。誰もが助けてもらえる。誰にも助けてもらえる権利がある。自助力があろうとなかろうと、「助けるに値する人材」であろうとなかろうと、属性を問われず、特性をとやかく言われず、当たり前のこととして、誰もが公助の対象となる。そのような「真の公助」は真の共助の延長上におのずと出現してくる。そのはずだ。

 ルトガー・ブレグマン著「希望の歴史 上下」を読んだ。本書は希望の書である。従来の一般的考え方「人間は本来邪悪である」をひっくり返し、「人類の本質は善である」との結論を、心理学、人類史、思想史、資本主義に至るまで幅広い領域を網羅・統合する考察を行ったうえで下した。そしてこの新たな人間観に基づく世界を築くことができるかを、具体的な事例をいくつも挙げて語っていく。その視野は広く、刑務所、警察、社会保障制度、学校教育、在宅ケア組織等々を緻密に調査している。

冒頭では、無人島に漂着した少年たちの現実の物語が語られる。小説「蠅の王」では、無人島に漂着した少年たちが憎み合い、殺し合ったが、その現実版は小説とは大違いだった。少年たちは、思いやりと協力によって、一年以上、無人島で生き延びたのだ。

続いて著者は、長年にわたって冷笑的な人間観の裏付けになってきた心理学実験や報道が実は嘘だったことを次々に暴いていく。「スタンフォード監獄実験」、「ミルグラムの電気ショック実験」、「キティ・ジェノヴィーズ事件(傍観者効果)」。
また、人間の愚かさの象徴と見なされてきたイースター島の崩壊について、「歴史学から地質学、人類学から考古学まで、あらゆる分野に協力を求め」て、真実を解き明かしていく。

暗い人間観は、マキャヴェッリからホッブス、フロイトからドーキンスまで西洋思想に浸透しており、キリスト教自体、人間は罪深い存在だと説いている。ここで著者は、人類の歴史における悪の浸透の謎を、歴史と進化論と進化心理学の観点から探求していく。そして、サピエンスがネアンデルタールを滅ぼしたという通説を否定する。
しかし、人間は友好的な一方で、監獄やガス室を作る唯一の種にもなった。それは人間を最も親切な種にしているメカニズムと、地球上で最も残酷な種にしているメカニズムの根っこは一つだから。それは「共感する能力」だ。

「共感はわたしたちの寛大さを損なう。少数を注視すると、その他大勢は視野に入らなくなる。悲しい現実は、共感と外国人恐怖症が密接につながっていることだ。その二つはコインの表と裏なのである」。また著者は、現代人の苦境を、「多元的無知」という言葉で説明する。多元的無知とは、「誰も信じていないが、『誰もが信じている』と信じている状態」、つまり、裸の王様を褒めたたえた人々の状態だ。

著者は、「人間の本性についてのネガティブな見方は、多元的無知の一形態ではないのだろうか。ほとんどの人は利己的で強欲だという考えは、他の人はそう考えているはずだという仮定から生まれたのではないか」と問いかける。そうだとすれば、「最悪な人間ではなく、最良の人間を想定する」ことも可能だと、明るい方向に目を向ける。

著者は数々の実例を挙げて、それが夢物語ではないことを示す。マネージャーのいない在宅ケア組織、ルールや安全規則のない廃品置き場のような公園、宿題も成績表もない学校、税金の用途を住民が決める地方自治体、ノルウェーのリゾートのような刑務所。その刑務所長は、「汚物のように扱えば、人は汚物になる。人間として扱えば、人間らしく振舞うのです」と言う。出所後の再犯率の低さが、そこが世界最高の矯正施設であることを語る。

人間を人間として扱わないアメリカの刑務所システムがもたらす再犯率は世界最高レベルだ。また警察の「割れ窓戦略」のせいで、無実の黒人男性が警官に殺される事件が相次いでいる。こうした状況のもとを辿れば、「スタンフォード監獄実験」のフィリップ・ジンバルドを含むたった三人の学者の歪んだ考えに行きつくことを本書は明かす。そうだとすれば、逆にほんの数人でも正しいことを訴える人がいれば、社会は大きく変わるのではないか、と思えてくる。

人間の善性を裏付ける証拠として、著者は最後に、アパルトヘイト撤廃に貢献した双子の兄弟、戦場でのクリスマス、ゲリラを家族のもとに戻らせた広告戦略について語る。著者は「地球温暖化から、互いの不信の高まりまで、現代が抱える難問に立ち向かおうとするのであれば、人間の本性についての考え方を見直すところから始めるべきだろう」と言う。また、「わたしたちが、大半の人が親切で寛大だと考えるようになれば、すべてが変わるはずだ」と言う。そう考えるか考えないかは、わたしたち一人一人に委ねられている。


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