白井聡著
「武器としての資本論」を読んだ。本書は、私たちが生活の中で直面する不条理や苦痛が、どんなメカニズムを通じて必然化されるのかを鮮やかに示してくれる「資本論」を、人々がこの世の中を生き延びるための武器として配りたいという著者の願いが込められている。「資本論」は、社会を内的に一貫したメカニズムを持った一つの機械として提示してくれる。
マルクスによる資本制社会の定義は「物質代謝の大半を商品の生産・流通(交換)・消費を通じて行う社会」であり、「商品による商品の生産が行われる社会(=価値の生産が目的となる社会)」というものである。商品による商品の生産とは、「労働力という商品」による別の商品の生産を意味する。近代になって「商品による商品の生産」が登場して初めて、物質代謝の大半が商品によって担われるようになり、この度合いが際限なく高まり続けるのが、資本主義社会特有の傾向であり、宿命である。
「剰余価値」の生産には、生産性を不断に高め続けなければならず、そのために労働過程をまるごと資本が形作ってしまった状態を「実質的包摂」という。そして今「包摂」は、生産の過程、労働の過程を飲み込むだけでなく、人間の魂、全存在の包摂へと向かっている。人間の感性までもが資本に包摂されてしまう事態をもたらしたのは「新自由主義」(ネオリベ)である。
新自由主義とは一般的には「小さな政府」「民営化」「規制緩和」「競争原理」といった事柄をキーワードとする政治経済の政策であり、資本の具体的対応としては「選択と集中」「アウトソーシング」といった利潤の追求が宣伝されるが、要するにこれらは剰余価値の追求手段である。そして現世界は新自由主義的なグローバリゼーションの世界であるといわれる。
マルクス主義社会学者のデヴィッド・ハーヴェイは新自由主義について「これは資本家階級の側からの階級闘争なのだ」「持たざる者から持つ者への逆の再配分なのだ」と述べている。「一億総中流」と言われ、無階級社会になりつつあった日本が、新自由主義の進行と同時に再び階級社会化していったのである。さまざまな新自由主義改革によって、肥え太ったのは資本家の側であり、労働者たちは、戦後獲得してきた権利を次々と失っていった。そして「1%対99%」の対立が始まったのだ。
新自由主義が変えたのは、社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまった。制度のネオリベ化が人間をネオリベ化し、ネオリベ化した人間が制度のネオリベ化をますます推進し、受け入れるようになるという循環である。従って、新自由主義とはいまや、特定の傾向を持った政治経済的政策であるというより、トータルな世界観を与えるもの、即ち一つの文明になりつつある。新自由主義、ネオリベラリズムの価値観とは、「人は資本にとって役に立つスキルや力を身に着けて、初めて価値が出てくる」という考え方である。
20世紀の終盤になって、相対的剰余価値の生産が行き詰ってしまった資本主義は、グローバル化に活路を見出す。剰余価値の生産という観点から見れば、最も大事なことは要するに労働力商品の価値の引き下げであり、これは絶対的剰余価値の追求への回帰であると言える。なぜなら労働者を使い倒すからである。
安価な労働力がある途上国に工場を移転させて、その労働力をこき使って安いコストで生産する。逆に安い労働力を先進国内に連れてくることにより、企業は大きな利益を上げてきたが、労働者の反発が各国で移民問題を引き起こしている。
20世紀後半のフォーディズム型資本主義において、労働者階級への再分配がかなりなされるようになり、資本家階級は自分たちの取り分を譲った。それを取り戻すための闘争が新自由主義であり、21世紀の20年間を見る限り、資本家階級はこの闘争に成功してきたと考えられる。この分配をめぐる闘争は、労働分配率を低下させるといったダイレクトな形でも起こるが、既存の再分配のための機構を逆利用する形でも行われている。
例えば税制で、大富豪が自分の秘書より低い税率しかかけられていないということが現実に起きている。
資本の側の包摂の攻勢に対して何も反撃しなければ、人間の基礎価値はどんどん下がってしまう。ネオリベラリズムが世界を席巻した過去数十年で進行したのは、まさにそれだった。人間の基礎的価値を切り下げ、資本に奉仕する能力によって人の価値を決めていく。そして「スキルがないんだから、君の賃金はこれだけね。これで価値通りの等価交換ということで、文句ありませんね」と迫る。それに立ち向かうには、人間の基礎価値を信じることである。
「私たちはもっと贅沢を享受していいのだ」と確信することだ。贅沢を享受する主体になる。つまり豊かさを得る。私たちは本当は、誰もがその資格を持っているのだ。しかし、ネオリベラリズムによって包摂され、それに慣らされている主体は、そのことを忘れてしまう。この忘却の強制こそ、ネオリベラリズムの最大の「達成」だったのかもしれない。
新自由主義の特徴は、人間の思考・感性に至るまでの全存在の資本のもとへの実質的包摂にあり、そこから我が身を引きはがすことが、資本主義に対する闘争の始まりであると見なさなければならない。しかし、大衆にそもそもその意思がなければ、そのような実践に向かうことはあり得ない。この意思を抹殺したことこそ、新自由主義の最も重大な帰結だと思う。
それゆえ、意思よりももっと基礎的な感性にさかのぼる必要がある。どうしたらもう一度、人間の尊厳を取り戻すための闘争ができる主体を再建できるのか。そのためには、ベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならない。
生産力を爆発的に上昇させ、かつての人類には想像すらできなかったような物質的な豊かさをもたらしながら、そのただなかに貧しさを作り出す。量は豊富になるけれど質は最低へと向かって行くというのは、資本主義の内在論理からしてまことに必然的なことである。