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小笠原博毅著「やっぱりいらない東京オリンピック」を読んだ。本書はオリンピックが日本社会に及ぼしている/及ぼすであろう影響についてしっかり考える基本的な材料を提供することを目指し、2013年の招致決定以降噴出している諸問題を、(1)東日本大震災からの「復興」と経済、(2)参加と感動、(3)暴力とコンプライアンス(法令順守)、(4)言論の自主統制と社会のコントロールという四側面から、事実を網羅し問題点を一つ一つ検証する。そして2020年東京大会に関する新規で真剣な議論を喚起しながら、オリンピック開催を批判する論点と材料を提供していく。

「復興」オリンピックという言葉の意味は二つある。(1)嘘でも本当に「復興」したこと世界にアピールするため。(2)「復興」を掲げることによってオリンピック招致をより有利に進めること。現実に何かプラスの成果があったのか、むしろその逆ではないか。

オリンピックのための施設整備や再開発のために建設物資は値上がりし、労働力は東京に集中する。新国立競技場建設の基礎工事用合板を賄うために、熱帯雨林では違法伐採が頻発し、福島原発の現場には非熟練労働者が安価な賃金で危険状況での作業を強いられている。さらにアパートの強制立ち退きや公園野宿者への弾圧、マラソンコース整備のための街路樹伐採、練習施設拡充のための公園樹木伐採など社会的災害といえる状況が発生。一方、飯館村では汚染土が詰められた黒いフレコンバッグがうず高く積み重ねられている。中間貯蔵施設の建設は追い付かず袋の数は増えるばかり。

オリンピックの経済効果とは、開催により生産も消費も活性化されるということに過ぎない。収支バランスが取れるということも、支出を補いうる収入がもたらされるということも、実は保証されているわけではない。支払った税金に対する費用対効果の試算は存在しない。

アメリカの政治学者ジュールズ・ボイコフによれば、オリンピック費用は「祝賀資本主義」の仕組みによって基本的に減ることはなく、時を経るごとに増えるもの、かさむようにできているという。その仕組みとは、オリンピックに関わる様々な事業への民間投資を促すために、税金が投入される。インフラや施設建設といった基幹事業の整備から始まる公的資金の投入は、やがてメディアやスポンサーが新たに開拓していくサイドビジネス的な市場にいたるまで公的支援を約束していく。

しかし不利益や投資回収が思うように立ちいかなくなったとき、債務を引き受けるのは公金を初期投資した公共セクター、つまりは当該地方自治体であって、民間企業への不利益は最小限にとどめられる。ボイコフは「オリンピックの開催地になった都市に、経済効果についての調査研究によって保障されている利益がもたらされることはない」と断言している。

オリンピックは単なる国際的なスポーツの祭典から、巨大スポンサー企業が一堂に集うグローバル資本主義の巨大な見世物に変質している。オリンピック開催に不都合な真実は見て見ぬふりをし、「どうせやるなら」と「参加」するあり方が拡散し多様化することによって、オリンピックとはだれが準備し、だれが主体で、だれが責任をもって開催するのかという、あらかじめ明らかにされていてしかるべき答えがますます曖昧なものになっていく。

オリンピックにおける「参加」という空間が実現するためには、排除、立ち退き、過剰な軍事化とセキュリティ網の整備が不可欠となる。そしてオリンピックに参加する不動産企業や建設業、軍事・セキュリティ関連企業には膨大な税金が間接的に流れ込み、多額の利益を生み出す仕組みがある。こうした「排除」「弾圧」「軍事化」が基礎にあって、参加型権力は勢いよく駆動している。そうやって作られる「参加」や「感動」の空間の中で、オリンピックが唱える「平和」「人類の調和」は維持されている。私たちは未来に先送りされた感動を共有するように駆り立てられる。

オリンピックはリーマンショック以降瀕死の状態にあるグローバル資本主義の最後の砦の一つとなっている。もはや市場における投機対象は労働でも物理的商品でもなく、身体パフォーマンスとそれを「楽しむ」人々の感情に移行している。その舞台に参加することで一体感や連帯感を感じることは「矛盾の培養器」であるオリンピックが求めていることではないか。「楽しい」という体験は、決して「楽しむ」自分には還元されない利益を生み出してしまう。それがオリンピックである。


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