熊倉正修著
「日本のマクロ経済政策」
を読んだ。本書は、近年の日本のマクロ経済政策の問題点と克服策を考察したものである。マクロ経済政策を構成するものとして為替政策、金融政策、財政政策を取り上げ、それらのいずれもが前近代的な矛盾とひずみに満ちており、第二次安倍政権発足後にそうした傾向が一層強まったこと、それを克服するには政治家や官僚に対して持続的で合理的な政策運営を促す仕組みが必要であり、さらに国民がそれを積極的に守る意思を示す必要があると述べている。
日本のマクロ経済政策の共通の問題点は、①客観的な現状分析に基づいていない、②明らかに持続的でない政策が行われている、③政策担当者がそのことを認めようとせず、政策目標や会計規則を操作するなどして既存の政策を続けていることなどである。
財政の持続的な政策を確保するための要件は、①現実的な想定にもとづく財政の長期見通しの作成、②長期的な財政の持続性と足元の財政政策の整合性を確保するためのルール、③客観的な立場から①の長期見通しを行ったり、②のルールが守られているか否かを評価したりする機関の設立、④民間の専門家などが①~③のプロセスを監視するために必要な情報の公開である。
近い将来の日本において上述したようなマクロ経済政策の改革が行われる可能性は低いと考える。その一つの理由は現行の政策が隘路にはまり込んで身動きが取れなくなっていることだが、より本質的な理由は、当の国民がそうした改革を求めているようには思われないことである。他の先進諸国に比べて、日本の国民の間で合理的で持続性のある政策を求める機運が低調に見えるのはなぜなのだろうか。
今日の日本には現代的な民主政治の前提である個人の自立の意識(意思ある個人が社会の基本単位だという考え)が十分に定着しておらず、個人と共同体の境界が曖昧な伝統的社会の要素が少なからず残っている。灌漑水耕を基礎とする伝統的な日本社会においては、固着した人間関係を前提とした共同体原理が発達し、利害関係は論理によってではなく条理によって曖昧な解決を図ることが選好されやすい。また、共同体内部への強い関心の反動として、外部の広い社会に対する関心が低下し、それを自分たちの影響外にある与件と考える傾向が強まる。
今日の日本の大きな問題は、政治が個人の自立を基礎とする成熟した市民社会への移行を後押しするのではなく、むしろその障害になってしまっていることである。戦後のほとんどの期間において与党の座を占めてきた自民党は、伝統的な家族社会や地域共同体への回帰を志向する懐古主義的な政党である。そうした政党が長く政権の座に君臨してきたため、政権運営能力を他の政党が育たず、それが変化をリスクとみなす国民性と相俟って、全体合理的な政策より近視眼的で現状維持志向の強い政策が選択されやすい社会を生んでいる。
自民党が求める社会が現代的な成熟した市民社会の対極にあることは、同党が2012年に発表した日本国憲法の改正草案を見るとよくわかる。ここに示されているのは、個人の自由意思を糾合して成立する近代的な国家像ではなく、血縁・地縁社会の延長線上に自然に存在する国家であり、国民と国家が溶け合って一体化することが理想とされている。
太平洋戦争の責任も戦後の混乱の原因も適切に総括されないまま時代は移り、米軍統治が終了し主権が回復すると、国民を日中戦争や太平洋戦争の闇に連れて行った人々が次々と政治や行政の舞台に返り咲いていった。今日では、その末裔に当たる人々が冒険主義的な経済政策を追求しつつ、個人の自立を否定する戦前社会の復活に執念を燃やしている。
日本は永遠にまともな国家に生まれ変わることができないのだろうか。日本を適切な経済政策が行われる真の民主国家に作り変えることができるとしたら、それをするのは私たち日本国民以外にありえないはずである。