中野晃一著
「私物化される国家」
「私物化される国家」を読んだ。ポスト冷戦のグローバル資本主義の時代に入り、国民国家が空洞化し富や権力の集中が進み、寡頭支配が世界的に拡散している。つまり、一部の特権的な統治エリートによる「国家の私物化」が横行している。立憲主義を基礎とした法の支配の原則や民主主義をないがしろにし、本来は主権者であるはずの市民を服従させることを政治と考えるような支配者がさまざまな国で誕生し、主導権を持つようになっている。
本書はなぜ国家が私物化されるようになったのか、このことの意味は何か、またいかにしてこれに抗うことができるかについて、現代日本政治に焦点を置いて論考を提示したものである。
自民党の綱領的文書の変遷を見ると、1955年体制下でそれなりに抑制されていた反動性が、今日の自民党では前面に出ている。つまり保守は保守でも現存する伝統や文化を保守するのに止まらず、革命的変化(反革命、保守革命)を追い求めてでも奪われてしまった「古き良きもの」を再興しなければならないという、とりわけ反動性の強い保守すなわち「保守反動」である。
安倍政治のキーワードとして「反動」と密接につながるのが、「日本を取り戻す」という選挙のキャッチコピーに表れた、喪失感あるいは剥奪感のにじむ「被害者意識」である。保守反動勢力の拠り所である靖国史観の底にも、日本がほとんど意に反して近代化を「こうむった」という「被害者意識」がある。保守反動の統治エリートにとって被害者意識ナショナリズムは実に好都合である。
安倍政権で言えば、集団的自衛権の行使容認やTPPなどでも再生産されている。これらの米国要求への対応を日本の存続のためには「やむを得ない」「避けられない」ものであるというプロバガンダを展開することが、政策推進を容易にするだけでなく、結果のいかんにかかわらず、責任を回避できるものにする。
安倍はポスト冷戦の新自由主義グローバル化時代の保守反動の旗手として、「エア・ナショナリズム」に興じている。日本会議というイデオロギー団体のつながりに限らず、反動的で復古的な国家主義が「アベノミクス」という看板を生み出した「改革派」と結合した「新右派連合」を形成しているところに、問題の根深さがある。
新自由主義改革では、政府が規制などの責任分野から撤退し「自己責任」を課すことから、置き去りにされるアクターの反対を突破するために、行政府の長へと権力を集中するという発想の中央集権的な制度改革を必要とする。政府の責任を縮小することと強権的な統治をおこなうことは矛盾しないばかりか補完関係にさえある。
選挙制度として小選挙区制が導入されると、政治の新自由主義化は加速度的に進んだ。小選挙区制の欠点としての「死票」を考えれば、小選挙区制が約束しているはずの「政治的市場」はおよそ市場とは呼べない不完全なものである。
小選挙区制による政党政治や民主主義の「市場化」は、有権者に政権選択の幻想を与えつつ、主体であるはずの有権者を寡占政党あるいは独占政権が支配する客体に変えてしまう作用を持つ。
歴史修正主義は、グローバル資本主義の下強化されてきた保守反動勢力による寡頭支配(少数派支配)、つまり「私物化される国家」の実態を隠蔽することを可能とするエア・ナショナリズムとして用いられている。言い換えれば、過去と現在の日本国内の保守反動統治エリートと一般国民の利害の乖離という現実から目をくらませるために、「外憂」を煽り強調するエア・ナショナリズムの狂騒である。
戦後から今日までの新聞報道と国家権力の関係の歴史的背景を考えると、依然として過去の遺産が重くのしかかっていることは否定できない。戦時中の最も言論統制が強かったときに完成された記者クラブ制度は今も健在であり、組織ジャーナリズムを根っこから腐らせていると言っても過言ではない。
発表ジャーナリズムとも呼ばれる政治・経済権力に極めて従属的なメディアのありようは、ジャーナリズムの名に値しない。
安倍が非立憲的な集団的自衛権の行使容認を強行してきた前提が、「正義の味方」アメリカに従うためだったが、トランプの就任でそんな建前が完全に吹き飛んでしまって、ただ単にアメリカに何が何でも従うという、大義名分も何もない哀れで極めて危険な状況に今、日本はある。
トランプとともに何の大義名分もない自国中心主義とその虎の威を借りようとする浅ましい蜜月関係が日米両国、東アジア、そして世界を危険にさらす可能性が高まっている。
当初ネオリベラリズムは、すべての個々人の経済的な自由の拡張を標榜していたが、冷戦後のグローバル資本主義時代に突入すると、グローバル企業とグローバル・エリートの「自由」ばかりを最大化するイデオロギーとしての性格を明らかにしていった。そしてトランプ政権誕生により、世界はアンチ・リベラリズムの時代に突入した。