fc2ブログ
 ロバート・B・ライシュ著「暴走する資本主義」を読んだ。米国は1970年代以降、大企業はより競争力を付け、グローバルに展開し、先進性のある存在となった。資本主義の暴走、著者が超資本主義と呼ぶ状況が生まれた。超資本主義は、経済的な権力が消費者と投資家へと移っていくとともに、勝利していった。消費者と投資家の選択肢は広がり有利な条件の取引に乗り換えることができるようになった。そして彼らを引き付けておくための企業間の競争も激化した。

超資本主義の勝利による影の部分が社会に現れてきた。経済格差の拡大や雇用不安の増大、地域社会の不安定化や消失、環境悪化、海外における人権侵害、商品やサービスの過剰氾濫など。他の先進諸国も米国と似たような状況に陥り始めている。

超資本主義を加速させたのと同じ競争が、政治決定プロセスにまで波及するようになった。大企業は専門家集団を雇い、また多額の資金を選挙活動に注いでいる。その結果、市民の声や価値観はかき消されてしまった。また産業別労働組合、市民団体、監督官庁など、市民の価値観を示していた旧体質の組織は、超資本主義の突風に吹き飛ばされてしまった。

改革派の多くは、超資本主義の副作用から民主主義を守るのではなく、特定の企業の行動を変えることに専念するようになり、人々の関心を民主主義を修復することからそらしてしまう結果になった。改革派のすべきことは、変更したい法律や規制に注力し、それを一般大衆に働きかけることである。企業献金が持つ影響力を弱め、民意を活性化させることが最も効果的で重要な改革である。

超資本主義の勝利は民主主義の衰退を招いた。民主主義と資本主義を同時に享受するためには、両社の境界を明確にしなければならない。資本主義の目的は消費者と投資家によい取引条件を与えることである。民主主義の目的は、私たちが一個人では達成できないような成果を得ることである。企業が意識的に社会的責任に取り組み始めたり、競争力を維持したり優位にするために政治を活用しようとしたときに、この境界は破られてしまう。

私たちは全員消費者で多くは投資家でもある。そしてこれらの立場において可能な限り最高の条件を得ようと努力する。これらの個人的な利益は社会的なコストを伴う。私たちはまた民主主義に参加する権利と責任を持つ市民でもある。したがって、私たちは民主主義という権力で、社会的コストを引き下げ、それによって購入する商品やサービスの真の価格を下げることができる。しかしこのことは、私たちが市民としての責任を真剣に考え、民主主義を守ろうとしてはじめて達成できる偉業である。最初の一歩は、私たちの考えを整理してきちんとした形にしていくことである。

 中野晃一著「私物化される国家」「私物化される国家」を読んだ。ポスト冷戦のグローバル資本主義の時代に入り、国民国家が空洞化し富や権力の集中が進み、寡頭支配が世界的に拡散している。つまり、一部の特権的な統治エリートによる「国家の私物化」が横行している。立憲主義を基礎とした法の支配の原則や民主主義をないがしろにし、本来は主権者であるはずの市民を服従させることを政治と考えるような支配者がさまざまな国で誕生し、主導権を持つようになっている。

本書はなぜ国家が私物化されるようになったのか、このことの意味は何か、またいかにしてこれに抗うことができるかについて、現代日本政治に焦点を置いて論考を提示したものである。

自民党の綱領的文書の変遷を見ると、1955年体制下でそれなりに抑制されていた反動性が、今日の自民党では前面に出ている。つまり保守は保守でも現存する伝統や文化を保守するのに止まらず、革命的変化(反革命、保守革命)を追い求めてでも奪われてしまった「古き良きもの」を再興しなければならないという、とりわけ反動性の強い保守すなわち「保守反動」である。

安倍政治のキーワードとして「反動」と密接につながるのが、「日本を取り戻す」という選挙のキャッチコピーに表れた、喪失感あるいは剥奪感のにじむ「被害者意識」である。保守反動勢力の拠り所である靖国史観の底にも、日本がほとんど意に反して近代化を「こうむった」という「被害者意識」がある。保守反動の統治エリートにとって被害者意識ナショナリズムは実に好都合である。

安倍政権で言えば、集団的自衛権の行使容認やTPPなどでも再生産されている。これらの米国要求への対応を日本の存続のためには「やむを得ない」「避けられない」ものであるというプロバガンダを展開することが、政策推進を容易にするだけでなく、結果のいかんにかかわらず、責任を回避できるものにする。

安倍はポスト冷戦の新自由主義グローバル化時代の保守反動の旗手として、「エア・ナショナリズム」に興じている。日本会議というイデオロギー団体のつながりに限らず、反動的で復古的な国家主義が「アベノミクス」という看板を生み出した「改革派」と結合した「新右派連合」を形成しているところに、問題の根深さがある。

新自由主義改革では、政府が規制などの責任分野から撤退し「自己責任」を課すことから、置き去りにされるアクターの反対を突破するために、行政府の長へと権力を集中するという発想の中央集権的な制度改革を必要とする。政府の責任を縮小することと強権的な統治をおこなうことは矛盾しないばかりか補完関係にさえある。

選挙制度として小選挙区制が導入されると、政治の新自由主義化は加速度的に進んだ。小選挙区制の欠点としての「死票」を考えれば、小選挙区制が約束しているはずの「政治的市場」はおよそ市場とは呼べない不完全なものである。
小選挙区制による政党政治や民主主義の「市場化」は、有権者に政権選択の幻想を与えつつ、主体であるはずの有権者を寡占政党あるいは独占政権が支配する客体に変えてしまう作用を持つ。

歴史修正主義は、グローバル資本主義の下強化されてきた保守反動勢力による寡頭支配(少数派支配)、つまり「私物化される国家」の実態を隠蔽することを可能とするエア・ナショナリズムとして用いられている。言い換えれば、過去と現在の日本国内の保守反動統治エリートと一般国民の利害の乖離という現実から目をくらませるために、「外憂」を煽り強調するエア・ナショナリズムの狂騒である。

戦後から今日までの新聞報道と国家権力の関係の歴史的背景を考えると、依然として過去の遺産が重くのしかかっていることは否定できない。戦時中の最も言論統制が強かったときに完成された記者クラブ制度は今も健在であり、組織ジャーナリズムを根っこから腐らせていると言っても過言ではない。
発表ジャーナリズムとも呼ばれる政治・経済権力に極めて従属的なメディアのありようは、ジャーナリズムの名に値しない。

安倍が非立憲的な集団的自衛権の行使容認を強行してきた前提が、「正義の味方」アメリカに従うためだったが、トランプの就任でそんな建前が完全に吹き飛んでしまって、ただ単にアメリカに何が何でも従うという、大義名分も何もない哀れで極めて危険な状況に今、日本はある。
トランプとともに何の大義名分もない自国中心主義とその虎の威を借りようとする浅ましい蜜月関係が日米両国、東アジア、そして世界を危険にさらす可能性が高まっている。

当初ネオリベラリズムは、すべての個々人の経済的な自由の拡張を標榜していたが、冷戦後のグローバル資本主義時代に突入すると、グローバル企業とグローバル・エリートの「自由」ばかりを最大化するイデオロギーとしての性格を明らかにしていった。そしてトランプ政権誕生により、世界はアンチ・リベラリズムの時代に突入した。

 ナオミ・クライン著「これがすべてを変える」を読んだ。本書は、気候変動(地球温暖化)という全地球レベルの危機が迫っているにもかかわらず、危機回避のための対策行動がずるずると先延ばしされている原因を追究したものである。

現行技術で解決可能な方法(例えば再生エネ開発)があるにもかかわらず危機対策が先延ばしされる主原因は、化石燃料企業がその生存をかけて莫大な資金をロビー活動や大規模自然保護団体への寄付に投入したり、回転ドアにより政府へ企業幹部を送り込んだりすることによって気候変動危機を否定し、あるいはカーボン取引市場の創設や石炭より温暖化効果が少ないと主張する天然ガス採掘、科学技術の進歩による解決など、現在の新自由主義に基づくグローバル経済システムをそのまま維持することを至上として活動しているからである。

さらに、危機対策の取り組みが現在支配的な経済的パラダイム(規制緩和型資本主義と緊縮政策の組み合わせ)や、西欧文化の基盤をなすストーリー(人間は自然とは離れた存在であり、自然の限界を知性の力で超えられるとする)、私たちのアイデンティティを形成し、コミュニティを特徴づける多くの活動(買い物、バーチャルな生活、さらに買い物)に真っ向から挑むものであるからにほかならない。
さらにそれは、世界史上最も裕福で強力な産業である石油・天然ガス産業にとって消滅を意味する。私たちは政治的、身体的、文化的にがんじがらめになっているために、この重大な問題に対処せずにきた。

私たちが今のままの生活を続けていけば、気候変動がこの世界のすべてを変えてしまう。その暗い未来を回避するためにはすべてを変えるほど根源的な変革が必要であり、この人類最大の危機が新しい経済システム出現の大きな歴史的チャンスになる。そして根源的な変革のためには民衆による下からの大きな社会運動が必要である。


| HOME |


Design by mi104c.
Copyright © 2019 個人出版コミュニティ, All rights reserved.