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 ピエール・ロザンヴァロン著「カウンター・デモクラシー」を読んだ。本書は、権力(政府)を監視し、阻止し、裁くという多角的なカウンターなしに民主主義は実現しえないことを、近代の民主主義の成立理念から、また多様な歴史経験をたどりながら描き出したものである。

民主主義とは多種多様の人々の意志を集約する仕組みである以上、もともと一元的ではありえない。むしろ声の複数性を前提とする。それを強引に一元化するとき、民主主義は専制や独裁に転化する。それを防ぐためには、選挙独裁に対する多角的なカウンターが必要である。具体的には、「法の統治」の軸である立憲主義、国民が権力に対して向けねばならない日々の責務である監視、権力の行いを可視化するメディア、市民が意志を表明する集会やデモや公的な場での発言、司法による審判などである。

問題は、選挙で代表を選んだら彼らにすべてを任し、権力を委ねる代表に対する「不信」のまなざしを持つ市民の監視が十分に行われていないこと、権力の行いを可視化する責務があるメディアのほとんどが、政府の広報機関か権力のプロパガンダに堕していること、市民が意志を表明する集会やデモも一部の人々に限られ、権力の振る舞いを変えさせるまでの全国的な盛り上がりに達していないこと、司法が「統治行為論」などという論理を作り、行政権力(政府)の専横を牽制することに及び腰であることなどである。

日本ではいま民主主義が最大に危機に瀕している。憲法違反が明らかな決定が閣議でなされ、政権周辺から法的整合性は二の次だと言う声が公然とあがり、その閣議決定に基づく安保法制が強行採決され、ほとんどの主要メディアは政権に懐柔されて批判的監視の姿勢を置き忘れ、何事も起こっていないかのような気配だけが漂う。そしてあちこちで抗議の声が上がっても、そんなふうに騒ぐ方がおかしいと言わんばかりの状況である。

沖縄では基地反対の明白な民意を振り払って基地建設の強行が続くばかりか、その民意を「頑迷」だとし「過激」だとみなす気配まで作り出されている。今やこの国では権力が監視されるどころか、権力の横暴に背を向けて抗議する人々を白眼視する傾向さえある。もはや民主主義は足元どころか腰まで朽ちかけている。

選挙による代表選出がすべてだとしたら、民主主義はかたちだけになる。一度選ばれた代表は何をするかわからない。最悪の場合、選ばれた代表は託されたはずの権限を自分の私欲のために用い、選んだ人々の期待を無視するどころか、人々から一切の権限を奪うことさえできる。そうなると民主主義は専制や独裁にも転化しかねない。実際、ナチズムを典型として、そういうことは何度も繰り返されてきた。日本でも安倍政権のもと戦前戦中の体制が再び繰り返されようとしているが、大多数の国民は実感しているようには見えない。


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