松田雄馬著
「人工知能の哲学」
を読んだ。第三次人工知能ブームのもと、人工知能に基づく社会基盤づくりが加速しているが、本書は、「知能とは何なのか」、「私たちはどこに向かおうとしているのか」との疑問を出発点とし、「生命としての知能」を探求することを目的に、人工知能と生命の差異を整理し、「知能」をとらえ直したうえで、人工知能研究のあるべき方向を探求している。
錯視は、私たちが「騙される」つまり「主観的に世界を作り出す」ことを示している。人間(生物)にとって、「世界」は時々刻々と変化する変幻自在の「無限定空間」であり、その中で生きていかなければならない。「知能」とは、身体を通しての環境との相互作用によって、「環境との調和的な関係」を作り出し、「世界」を知り、「自己」を作り出していくことによって、不確実な世界を生きていくことを可能にするものである。
哲学者ジョン・サールは、「強い人工知能」「弱い人工知能」という二つの考え方を示した。前者は知能を持つ機械(精神を宿す)、後者は人間の知能の代わりの一部を行う機械を指す。「強い人工知能」は未だ実現されておらず、開発あるいは実現されているのは「弱い人工知能」である。
最近議論されている人工知能における「シンギュラリティ」は、あくまで情報テクノロジーの進化という観点において、「コンピューターが人間の知性を凌駕する」可能性を議論したもので、そこには「生命」としての「知能」に関する考察が、十分に反映されていない。
「人間にできて機械にできないこと」の本質は、「自ら意味を作り出す」ということである。「意味」は、人間が身体を持ち、自分自身の「物語」を生きることによってはじめて作り出すことができるものであり、自分自身の物語の中に、客体を位置づける(関係性を作り出す)ことである。こうした「物語」や「関係性」を作り出すことができる「人工知能」は未だ作られていないばかりか、ほとんど研究されていない。
要するに著者の主張は、現在進められている情報テクノロジーに基づく「人工知能」開発では、「弱い人工知能」の高度化に過ぎず、いつまでたっても「強い人工知能」を実現することはできないということである。
しかし、生物と同じような機能を持たないと「強い人工知能」が作れないとは限らないのではないか。実空間での相互作用から自己学習するような、基本的アルゴリズムだけの人工知能をロボットに組み込み、実空間での経験を重ねることで知能を習得していくようにすればよいのではないか。ロボット学校で基本的な教育をする必要があるかもしれないが。