想田和弘著
「熱狂なきファシズム」
を読んだ。安倍自民党は、全体主義を志向する改憲案を掲げ、国政選挙で圧勝した。つまり、日本の有権者は、ファシズムを目指す政党に国家権力を委ねるという選択をした。日本は、いまファシズムの生成過程にある。しかし、過去のファシズムのような熱狂がなく、人々の無関心と「否認」の中、みんなに気づかれないうちに、低温火傷のごとくじわじわと静かに進行する現代型ファシズムである。
安倍政権は、立憲主義やそれに基づく民主制を解体する作業を、極めて意図的に、主権者には見えにくい形でコソコソと進行させている。一方、日本社会に蔓延している「消費者民主主義」により、主権者の多くは、自らを民主主義を作り上げていく能動的な主体ではなく、政治家が提供する政治サービスを票と税金を対価として消費する受動的な「消費者」と誤ってイメージしている。かくして、政治の劣化と政治への無関心の悪循環が生じる。
改憲運動の急先鋒である安倍は、憲法学の大家である芦部伸喜教授の存在する知らず、戦後の憲法解釈を全く勉強していないし、勉強する気もない。安倍自民党の改憲案は、一言でいえば、「日本は民主主義をやめます」という内容である。安倍自民党が目指す「新しい日本」とは、「国民の基本的人権が制限され、個人の自由のない、国家権力がやりたい放題できる、民主主義を捨てた国」である。今の安倍自民党は、ブラック企業の社員を国民と読み替えれば、ブラック政党と言える。
映画「永遠の0」は、困ったことに、よくできたメロドラマである。つまり、「泣ける映画」として、非常によくできているのである。そして、観客の多くが感情を煽られ涙を流しているうちに、ついうかうかと、作者の政治的メッセージを受容してしまうようにできている。極めて巧妙なプロパガンダ映画でもある。安倍も感動したという。
本作は「だらけきった戦後民主主義の日本人」が「誤解され、忘れ去られた戦前・戦中の日本人」の「本当の姿」を発見し、その愛の強さや自己犠牲の精神に驚嘆すると同時に、自らの認識と生き方を改めていくという物語なのである。
観客は、エキサイティングなゼロ戦活劇と、主人公への感情移入によって理性を麻痺させながら、そういうメタ・メッセージを無意識に受け取り、エモーショナルに共鳴することになるのだ。
「永遠の0」は、忠臣蔵と物語の構造が基本的に同じである。忠臣蔵は、愚かな主君の行為によって窮地に陥った臣下たちが、主君の行為の愚かさは不問に付しながら、いわば「国のため」に自分の命を犠牲にする物語である。一方の「永遠の0」は、愚かな指導者(軍部)の方針によって窮地に陥った国民が、指導者の愚かさは不問に付しながら、「国のため」に自分の命を犠牲にする物語である。
「永遠の0」は、戦後民主主義を否定し、戦争で死んでいった人たちを称揚するプロパガンダ映画として、今後かなり長期間にわたって、日本人の精神性に重大な影響を与えていくと危惧される。
全体主義者安倍と同じ穴の狢である百田尚樹原作の映画なんか、胸糞悪くて絶対見る気がしないし、間接的にでも言及することさえ厭わしいが、ドキュメント映画監督である著者の分析が、鋭くかつ正しいと思われるので、あえて転載した。人間を物質に貶める特攻を賛美する人間にろくな奴はいない。私は、そんな奴とそれが作り出すものすべてを断固拒否する。