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  日下喜一著「現代民主主義論」を読んだ。本書は、「人民の支配(権力)」という観点から、民主主義に対する異なった見解を検討・整理し、一つの民主主義理論を構築しようと試みたものである。日本の全体主義国家化を目指す政権と支持勢力によって、民主主義が破壊されつつある今日、反政権活動を進めるだけでなく、歴史的観点から民主主義の概念、本質、価値理念、制度などを展望し、その存続意義を理解することは、民主主義の劣化を防ぐためにも意味のある事である。

第二次大戦後、日本は連合国の占領のもとで、上からの改革という形で民主化が強行され、意識的な運動によって獲得されなかったという歴史が、内実を伴わない「戦後民主主義」というカッコ付の民主主義を生み、その特殊性を今日まで引きずってきたので、言葉自体も正確には理解されず、または曖昧なままで通用するという特殊事情を生んでいる。民主主義は、政治の在り方と関連して編み出された概念であり、多数者またはその社会の全構成員が、究極的には立法・行政・司法という三権力を所有し、支配するという政治理念である。つまり、「人民の支配(権力)」である。

民主主義の概念を構成する要素として、①人民主権、②人民の政治への関与、③人民の意志や利益の保護があり、制度・手続きを本質とする見解は②と関連し、理念・内容を本質とする見解は③と関連する。両者はともに、民主主義の概念にとって不可欠の要素である。理念・内容とは民主主義の価値理念、つまり自由と平等という二つの観念である。
自由に重点を置くのが、イギリス・アメリカ型の自由民主主義、平等に重点を置くのが、フランス型の社会民主主義(例:スウェーデン)がある。

政治参加を民主主義の制度との関連でいえば、代議制民主主義、すなわち代議制度の公的ルートを通しての参加と、参加民主主義、すなわち個人や集団の自発的意志に基づくインフォーマルな参加に分けられる。

多数決原理は、少数者保護の理念と結合してあらわれた便宜的手段であり、多数者は少数者の存在を前提し、多数者の権利は少数者の権利を前提とする。議会は討議を通じて「一つの妥協を得ることを目的としている」のであって、その意味で多数決原理は、現実的には「多数・少数決原理」としてあらわれる。重要なことは、多数決原理が単に量だけの問題ではなく、質をも含んだものになるということである。つまり、多数決原理は妥協の原理によって量と質を兼ね備えたものになる。議会の機能が停滞気味である原因は、こうした認識の欠如に起因していることが多い。互譲の精神で妥協しなかったり、強行採決を行うことは多数決の精神に反することになる。

 斎藤貴男著「民主主義はいかにして劣化するか」を読んだ。本書は、安倍政権下の日本の民主主義が、ただ単に現象面だけにとどまらず、その本質を明らかに「劣化」させているとの結論に至った根拠を示したものである。

 解釈改憲による集団的自衛権行使は、米国の戦争に参戦するための前提であり、自国の負担を小さくし、格下の同盟国にカネや人命を肩代わりさせようとする米国の国策に沿っている。米国は、経済権益の拡大・支配のためなら何でもアリのインフォーマル(植民地獲得を伴わない)帝国である。安倍は米国の戦争で日本が多大な貢献さえすれば、憲法改正も許してもらえるはずだと踏んでいる。

安倍の唱える「積極的平和主義」とは、単に「戦争をしない状態」ではなく、日本や米国の多国籍企業が、世界中で好き勝手に行動して利益を上げられる状態を「平和」とし、それを守るため海外で展開している生産拠点や権益も軍事力で対応することである。そのためには憲法改正が必要になる。

公明党は、小渕政権下で住基ネット、周辺事態法、国旗・国歌法、盗聴法などの制定に協力しまくって連立与党入りを果たした信用できない政党だ。
安倍のバックには経済界や日米のグローバルビジネスが存在し、憲法改正の提言も経団連や経済同友会が行っている。日本経済全体が、戦争も辞さない外需優先になっていく。
「米国とともにある戦時体制の国」を進める安倍にとって、戦争の悲惨を体現している被爆者の存在は、邪魔者以外の何物でもない。だから広島と長崎の原爆忌の挨拶を積極的にコピペで済ませた。米軍と自衛隊は、司令部が同居または隣接して、一体化が進んでいる。

安倍の独裁宣言「私が最高責任者です」にもかかわらず、それで地位を追われることなく通ってしまうということは、有権者が支持しているということ、高い支持率を維持することで安倍の独裁、暴政をむしろ国民自身が積極的に促している。だから、民主主義の劣化なのだ。

 柿崎明二著「検証 安倍イズム」を読んだ。本書は、安倍の言動を国会審議や政府の会議の議事録、著作、公表された提言、報告書などから読み解き、「安倍イズム」と名付けた国家先導政策の背景にある、安倍の「思考と意思のかたち」を浮かび上がらせたものである。

国家の肯定的な役割を高く評価する一方、否定的な面にはあまり触れない、いわば国家性善説的な見方が、安倍の「思考と意思」の根底をなしている。それに基づき、「取り戻す政治」と「関わっていく政治」を展開する安倍イズムは、「心情レベルの国家主義」と言える。これを延長、極大化していけば、限りなく国家主義体制に近づく。国家が、先頭に立って関係者あるいは国民を目指す目的に導こうとする一連の手法を「国家先導主義」と名付ける。

「国家主権」を重視する安倍にとって、1945年9月2日から7年弱、「主権を奪われ、日本が日本人以外のものだった」期間であり、「歴史の断絶」であった。従って、この間に制定された現憲法や旧教育基本法は、「戦後レジーム」の象徴であり、東京裁判もしかりであった。かくして安倍は、占領期に失われた誇りと価値を「取り戻す」政治を目指す。
安倍の国家観は、「民主主義体制下では国家は個人の自由、権利を守る存在だ。それを指導する資格があるのは、選挙で国民の審判を受けた国会議員の中から選出される首相である」と総括できる。
安倍の国家観、改憲意欲、安保政策、歴史認識などには、祖父である岸信介の強い影響が見られる。というよりも、そっくりと言ってよい。

国家先導主義は、反転の三段論法により国家に対する協力や支援が当然視されるようになる可能性がある。即ち「国家が国民生活に関わる問題の解決に取り組む→国家の取り組みは国民のためである→国民もその取り組みに協力、支援すべきだ」。「国民のため」から「国家のため」に反転する。また、国家の機能や資産が、国家のためではなく、「国家の運営を担っている政治勢力のため」に使われる危険性がある。

  想田和弘著「日本人は民主主義を捨てたがっているのか?」を読んだ。民主主義の危機に対して、大部分の日本人の危機センサーが起動せず、のっぴきならない危険が迫っているのに平気な顔をしていることに対する危機感を、実例に基づき具体的に考察している。そして民主主義を壊そうとしている政治家らの動きを許している、私たち主権者の責任を論じており、大いに共感できる。

第1章 言葉が「支配」するもの---橋下支持の「謎」を追う
 橋下を支持する言説にひとつの「気になる傾向」がある。多くの橋下支持者は、橋下が使う言葉を九官鳥のようにそっくりそのまま使用する。言葉の支配によって思考、行動が支配されている。それは、それらの言葉がある種の「リアリティ」を持って人々の心に響くと同時に、感情を動かしたからである。
橋下の発言「民主主義は感情統治」の意味は、「民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度だが、そのコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだ」と言っている。橋下は危険な政治家だ。

第2章 安倍政権を支えているのは誰なのか?
 2012年4月発表の自民党改憲案が目指す「新しい日本」とは、「国民の基本的人権が制限され、個人の自由のない、国家権力がやりたい放題できる、民主主義を捨てた全体主義の国」と要約できる。現行憲法との対比によって、その悪辣な条項の危険性を指摘している。

これほどまでに悪辣な改憲案が公になり、誰でもインターネットで読めるにもかかわらず、なぜマスコミは騒がないのか。また、2012年12月の衆院選挙は改憲案の公表後に行われたにもかかわらず、なぜ日本の有権者は、自分たちの人権を骨抜きにしようという意思を持つ自民党を圧勝させてしまったのか。不条理かつ不可解な話である。日本国民は、国家権力から銃剣を突き付けられることもなく、自ら進んで、民主主義を手放すことに同意するプロセスを歩んでいる。

2013年3月24日の参院予算委で、憲法学界の大家である芦部信喜の名を知らず、憲法学の基本を勉強せずに改憲を目論んでいることを、白日の下に晒した事件に対して日本社会は寛容で、むしろ安倍擁護の言説が大勢を占めた。擁護論に共通する特徴は、内閣総理大臣という日本の最高権力者に対して要求する資質の、異様なまでのハードルの低さである。「首相や政治家は私たち庶民と同じ凡人でよい。それが民主主義だ」というイデオロギーが垣間見える。

第3章 「熱狂無きファシズム」にどう抵抗するか
 自民党政権の樹立によってなんとなく進行するファシズムに、一部のネット右翼は別として、熱狂はない。半分近くの主権者が投票を棄権している。人々は、無関心なまま、しらけムードの中で、おそらくそうとは知らずに、ずるずるとファシズムの台頭に手を貸し参加していく。低温火傷のように、知らぬ間に皮膚がじわじわと焼けていく。危険を察知するセンサーが作動せず、警報音が鳴らない。

麻生発言が露呈したように、安倍自民党は、こうなることを意識的に狙って、戦略に基づいて着実に実行しつつある。内閣法制局長官の異例人事による9条の解釈改憲、武器輸出解禁、原発推進、TPP推進、秘密法、戦争法、教育基本法など枚挙に限りがない。

政治家は政治サービスの提供者で、主権者は投票と税金を対価にしたその消費者であると、政治家も主権者もイメージしている。そういう「消費者民主主義」とでも呼ぶべき病が、日本の民主主義を蝕みつつあるのではないか。「投票に行かない」「政治に関心を持たない」という消極的な「協力」によって、熱狂無きファシズムが静かに進行していく。
私たちが消費者的病理に陥っていることを認識し、一人一人が民主主義を作り上げていく、あるいは守っていく主体になる覚悟を決めることが、長い闘いの第一歩になる。

憲法第12条 この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。(以下略)

 小説を投稿、閲覧できるウェブサイトが次々にオープンしている。書籍化が年140冊を超えるサイトがあり、閲覧に課金して月200万円を稼ぐ作家もいる。「ユーチューブ」などの動画投稿サイトから映像や音楽が人気になるのと似た構図で、従来とは違う作家の在り方を生み出している。

 出版社KADOKAWAとブログなどを運営する「はてな」は今月末、小説投稿サイト「カクヨム」を始める。狙いの一つは才能の発掘だ。掲載作から本を作る文芸誌のように、人気作や優秀作は出版につなげるという。「投稿サイトは一つの雑誌であり、文化」と萩原猛編集長は話す。

 カクヨムの特徴は人気作の「二次創作」を認めたことにある。KADOKAWAが版元の「涼宮ハルヒ」シリーズなど、許諾済みの作品からキャラクターや設定を借りられ、より気軽に創作が始められる。「デビュー前に二次創作をしていた作家も多い。創作のハードルを下げたかった」

 実際、文芸誌などの新人賞に応募するのとは違い、投稿サイトには最初はプロを目指さない人も多い。投稿歴2年のペンネーム沢村基さん(40)は主婦の傍ら毎日、作品を更新する。投稿作には読者から感想や要望が届く。「しんどい時もあるけれど、励みになっている」。無料公開したボーイズラブの小説は閲覧数が2万を超えた。「専業作家になるのは厳しいけれど、1冊ぐらい本を出せたら」と思うようになった。

 投稿サイトは多様化も進んでいる。1999年スタートの「魔法のiらんど」が「ケータイ小説」をヒットさせて知られるようになり、2004年には「小説家になろう」が開設。せりふが無料通信アプリ「LINE」のような吹き出しに現れる仕組みのサイトなど、昨年だけで少なくとも4サイトがオープンした。

■主な小説投稿サイト
<サイト名> 魔法のiらんど
<開設年> 1999
<運営> KADOKAWA
<特徴> 恋愛系の小説が中心。ケータイ小説「恋空」が映画化

<サイト名> 小説家になろう
<開設年> 2004
<運営> ヒナプロジェクト
<特徴> 「なろう系」と呼ばれるファンタジー系ライトノベル

<サイト名> E★エブリスタ
<開設年> 2010
<運営> エブリスタ
<特徴> 漫画やエッセーも投稿可能

<サイト名> comicoノベル
<開設年> 2015
<運営> NHNcomico
<特徴> 登場人物の台詞が無料通信アプリ「LINE」風の吹き出しで表示

<サイト名>ノベラボ
<開設年> 2015
<運営> ディスカヴァー
<特徴> 投稿作は編集者が読み、優秀作は出版も。投稿作の二次創作は自由

<サイト名> STORIE
<開設年> 2015
<運営> インデックス
<特徴> イラストと物語を合わせて投稿可能

<サイト名> カクヨム
<開設年> 2016
<運営> KADOKAWA、はてな
<特徴> ホラーなど7ジャンルのコンテスト実施。優秀作は出版も


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