想田和弘著
「日本人は民主主義を捨てたがっているのか?」
を読んだ。民主主義の危機に対して、大部分の日本人の危機センサーが起動せず、のっぴきならない危険が迫っているのに平気な顔をしていることに対する危機感を、実例に基づき具体的に考察している。そして民主主義を壊そうとしている政治家らの動きを許している、私たち主権者の責任を論じており、大いに共感できる。
第1章 言葉が「支配」するもの---橋下支持の「謎」を追う
橋下を支持する言説にひとつの「気になる傾向」がある。多くの橋下支持者は、橋下が使う言葉を九官鳥のようにそっくりそのまま使用する。言葉の支配によって思考、行動が支配されている。それは、それらの言葉がある種の「リアリティ」を持って人々の心に響くと同時に、感情を動かしたからである。
橋下の発言「民主主義は感情統治」の意味は、「民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度だが、そのコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだ」と言っている。橋下は危険な政治家だ。
第2章 安倍政権を支えているのは誰なのか?
2012年4月発表の
自民党改憲案が目指す「新しい日本」とは、「国民の基本的人権が制限され、個人の自由のない、国家権力がやりたい放題できる、民主主義を捨てた全体主義の国」と要約できる。現行憲法との対比によって、その悪辣な条項の危険性を指摘している。
これほどまでに悪辣な改憲案が公になり、誰でもインターネットで読めるにもかかわらず、なぜマスコミは騒がないのか。また、2012年12月の衆院選挙は改憲案の公表後に行われたにもかかわらず、なぜ日本の有権者は、自分たちの人権を骨抜きにしようという意思を持つ自民党を圧勝させてしまったのか。不条理かつ不可解な話である。日本国民は、国家権力から銃剣を突き付けられることもなく、自ら進んで、民主主義を手放すことに同意するプロセスを歩んでいる。
2013年3月24日の参院予算委で、憲法学界の大家である芦部信喜の名を知らず、憲法学の基本を勉強せずに改憲を目論んでいることを、白日の下に晒した事件に対して日本社会は寛容で、むしろ安倍擁護の言説が大勢を占めた。擁護論に共通する特徴は、内閣総理大臣という日本の最高権力者に対して要求する資質の、異様なまでのハードルの低さである。「首相や政治家は私たち庶民と同じ凡人でよい。それが民主主義だ」というイデオロギーが垣間見える。
第3章 「熱狂無きファシズム」にどう抵抗するか
自民党政権の樹立によってなんとなく進行するファシズムに、一部のネット右翼は別として、熱狂はない。半分近くの主権者が投票を棄権している。人々は、無関心なまま、しらけムードの中で、おそらくそうとは知らずに、ずるずるとファシズムの台頭に手を貸し参加していく。低温火傷のように、知らぬ間に皮膚がじわじわと焼けていく。危険を察知するセンサーが作動せず、警報音が鳴らない。
麻生発言が露呈したように、安倍自民党は、こうなることを意識的に狙って、戦略に基づいて着実に実行しつつある。内閣法制局長官の異例人事による9条の解釈改憲、武器輸出解禁、原発推進、TPP推進、秘密法、戦争法、教育基本法など枚挙に限りがない。
政治家は政治サービスの提供者で、主権者は投票と税金を対価にしたその消費者であると、政治家も主権者もイメージしている。そういう「消費者民主主義」とでも呼ぶべき病が、日本の民主主義を蝕みつつあるのではないか。「投票に行かない」「政治に関心を持たない」という消極的な「協力」によって、熱狂無きファシズムが静かに進行していく。
私たちが消費者的病理に陥っていることを認識し、一人一人が民主主義を作り上げていく、あるいは守っていく主体になる覚悟を決めることが、長い闘いの第一歩になる。
憲法第12条 この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。(以下略)