アマゾン委託販売中の本がここ2ヶ月の間1冊も売れていません。そろそろ新しい本を出さないといけないのですが、なかなか思うようにはかどりません。次はSF短編集の予定なので、自分にハッパをかける意味で作成原稿を少しずつでも発表していこうと思っています。原稿に対するご感想をお寄せ下さい。
1.「緑の遺伝子」・・・・・・・・・・・十合ヒロシ マングローブの生い茂る湿地帯の泥土に半ば埋もれるようにして男が横たわっていた。胎児のように縮めた手足や顔に苔のようなものが層をなして張り付いていることから見て死後何日も経っているようであった。警官達は男を湿地帯のはずれに停めてあった死体運搬車に乗せてモルグへ運び込んだ。行方不明者や近辺の路上生活者のリストには該当者が見つからず、身元はようとして知れなかった。死因を特定するための死体解剖に立ち会った検死医は、死体の皮膚と内蔵が緑色に染まっているのを見て背筋に悪寒が走るのを覚えた。新しい疫病の疑いがあったため公衆衛生局で細胞検査が実施されたが、新型の細菌やウィルスは検出されなかった。しかも驚いたことに細胞は生きており、水分だけの培養皿の中で増殖していた。顕微鏡観察で人間の細胞には含まれる筈のない葉緑体が検出され、代謝テストで光合成を行っていることがわかった。
自局の守備範囲外と判断した公衆衛生局は、国立遺伝子研究所に問題を持ち込んだ。 「エクソン部分のDNA塩基配列は通常のものと殆ど同じで、偏差は0.1%以下と通常 のばらつき範囲内です。葉緑体遺伝子は見つかりません。」 研究員の木村がDNA解析結果を示しながら報告した。 「イントロン部分はどうだ?」主任研究員の菊川が聞いた。 「DNA塩基配列に20%の変異が認められます。しかし、元々不活性部分なのでどれ が葉緑体遺伝子に関係するのか特定することはできません。」 「m、t、rの各RNAとリボソームの葉緑体生成酵素を調べて逆推定するしかないな。 所長からこの細胞は極秘事項だと言われている。家族にも喋っちゃいかん。特に報道機 関には注意するように、いいね。」
極秘命令は恐らく政府から出ているのだろう。無理もなかった。マングローブ林は、国連決議で義務づけられた地球温暖化対策の目玉として政府が国内全土への植林を推進しているもので、遺伝子組み換えによって炭酸ガス吸収能を通常の1000倍以上に高めた強力な光合成植物林である。おまけに酸性雨やオゾンホールからの紫外線にも耐性があり、計画当初マスコミや環境保護団体から生態破壊の危険性を追求されたが、国会での強行採決により押し切った経緯がある。そのマングローブ林で緑化死体が発見されたことが報道機関に漏れたら、政府は窮地に陥り政権維持が困難になる可能性が大きい。
しかし、その緑化死体は人類種の根幹を揺るがす大きな変化の前兆に過ぎなかった。その後、あちこちのマングローブ林近辺で緑化死体が発見されただけではなく、国内各地で緑化病と呼ばれる奇病が発生した。顔や手足に発生した緑色の斑点が全身に広がり、高熱と激痛に苦しみながら死んでいくのである。政府の必死の隠匿工作もむなしく遂に報道機関にすっぱ抜かれ、マングローブ林との関連が追求された。世界各地でも類似の奇病発生が報告され、マングローブの植林を推進している先進諸国で特に著しいことが判明するに及んで政府閣僚は総辞職に追い込まれた。
世界各国の遺伝子研究所、生理学者、免疫研究者などの共同研究により、10年後にやっと緑化病の発生メカニズムと治療法が明らかになってきた。マングローブの遺伝子組み換えに用いたレトロウィルスが、DNA塩基配列のイントロン部で眠っていた太古の葉緑体生成遺伝子を活性化させ、生成した葉緑体とその派生物を異物として免疫機構が攻撃するために起こる一種の自己免疫不全症であった。治療法は葉緑体遺伝子をリボザイム酵素でDNA塩基配列から切り出す遺伝子治療である。治療体制が整うまでの間、世界中で毎月何千万人もが緑化病で死亡したため世界人口はほぼ半減してしまい、文明の維持に支障をきたすのは避けられそうもなかった。世紀末の厭世的風潮が広がり人々は暗い予感に怯えていた。そんな中で唯一の救いは新生児の出生率が世界的に増大していることであった。
「おめでとうございます。男の子と女の子の双子の赤ちゃんですよ。」 二人の看護婦が新生児を一人づつ大事そうに抱いて、母親が横たわるベッドの横に立った。母親は微笑みながら薄緑色の斑点が残る両腕を伸ばして新生児を抱き、顔を覗き込んだ。それは凹凸のある緑色の表皮に痕跡程度の眼、鼻、口が貼り付いた古代の粘土細工の顔のようであった。こわばった表情で穴のあくほど見つめていた母親は、やがてにっこりすると二人の新生児を交互にあやし始めた。たとえそれが光合成能力を獲得して、人類とは異なる進化を開始した突然変異種であるとしても、母親にとっては腹を痛めた子供であることに変わりはなかった。
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