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SF短編集の原稿第13弾です。原稿に対するご感想をお寄せ下さい。

「耐性生物」・・・・・・・・・・・十合ヒロシ
 会社を終えて帰宅した森山深造は、いつものように温調付き空気浄化機のスイッチを入れ、浄化完了のチャイムを聞いてから防毒マスクと手袋を脱いでロッカーに収めた。浴室の浄水器バルブを開いてシャワーを浴び、うがいを済ますとリビングキッチンのソファに座りメディアセンターを起動した。初期画面はTVに設定しており、画面にはニュースが流れていた。今日は大気汚染警報が出されていて、各地で光化学スモッグが発生しているという。出生率は、政府の様々な支援策にもかかわらずじりじりと下がり続けており、10年後には人口が半減すると予測されている。

「ただいま!」玄関口で足音がして、パートナーが帰ってきたようだ。シャワーを済ませて部屋に入ってきた。
「今日は会社の帰りにスーパーで買い物してたから遅くなったわ。晩ご飯はお寿司を買ってきたので一緒に食べましょう。近頃は魚も少なくなってずいぶん値上がりしてるみたいよ、肉や野菜もそうなんだから暮らしにくくなるわね」
「うん、大気や水の汚染が進んで生態系が破壊されてるからなぁ。今までの遺伝子改良だけじゃ対処できなくて、動植物に新しい人工遺伝子を組み込んでるらしいよ。これがどんどんエスカレートしたら、わたしらはともかく次の世代は大丈夫なんだろうか?」
「そう言えば出産前遺伝子検査の不合格率が急増していて、出生率の低下を食い止めるためにも受精卵の遺伝子改良を認めるべきだっていう意見が、ネットのアンケート調査で大勢を占めたそうよ。怖いわね」
「それって、政府の諮問機関が主催したやつだろう。民間のシンクタンクが主催した別の調査では、全く逆の結果になってるよ。欠陥遺伝子を正常化するだけならいいけど、こういったことはえてしてエスカレートしていくものだから、きちんと歯止めをかけられるようにしておかないと危ないよ」
「そうよね、でも誰がやってくれるのかしら。政府?それとも医師会?」
「これまでの流れから見ると期待薄だな。生命倫理の議論はいつも現実に追いついていないからね」

 車や家電品、IT機器などの工業製品が年々安くなるのに反して、食料品は値上がりする一方であった。大気と水の汚染に土壌汚染も加わって、農産物、畜産物、海産物の収穫量が激減しているのが原因とされている。これまで様々な環境対策が取られてきたが、進行を遅らせるのが精一杯で、破壊された環境を元に戻すことはできなかったのである。一部の環境保護団体は、人間の生活様式を根本的に変えない限り復元不可能と主張していた。政府は、各生産物の収穫量の増大対策として、新規開発の各種人工遺伝子を動植物に全面的に導入し、劣悪な環境でも生き残れる耐性動植物を生み出すことにした。これによって収穫量の激減に歯止めがかかり、やがて各生産物が安定して供給されるようになった頃、吸収不良症候群と呼ばれる病例が多発する兆しが見られたのである。

 今朝は、昨夜来の下痢が治まらず吐き気がする上に、熱があるのか頭がクラクラして起きあがるのもやっとの有様であった。森山は、洗面所で歯を磨きながらどうしたものかと思い悩んでいた。今、会社では発電設備の事故対策でてんてこ舞いしており、みんなの目を意識すると休みづらいのである。一方、ここ数週間にわたる神経がすり減るような対策業務から逃れて休む口実ができたという思いもあった。どちらとも決めかねてぐずぐずしていたが、ついに休みたい気持ちの方が勝って会社に電話し、体調不良のため今日は休むと連絡した。食欲がなく、ネットを見る気にもならずベッドで寝ころんでいたが、これまで経験したことのない症状に不安を覚え、病院で診察してもらおうと思い立った。

 国立総合医療センターでは、全国的に拡大しつつある吸収不良症候群の原因究明と対策の立案に追われていた。病例は古くから知られているもので、原因も各種栄養を吸収するシステムに障害が起こり、栄養素を正しく吸収することができないためとされているが、吸収システムに障害を起こす因子が特定できないのだ。従来知られている因子としては、栄養の吸収に必須の酵素を先天的に持っていないとか、膵臓の病気、腸の炎症、胃や腸の切除手術などがあるが、いずれも全国的な病例の拡大を説明できないのである。新種の感染性細菌やウィルスも見つからず、医療現場では不足栄養の症例に応じた必須酵素の注入や、不足栄養素の点滴補給などの対症療法を続けるしかなかった。

「栄養素代謝グループで注目すべき実験結果が出たそうなんで報告してもらう。皆でよく内容を検討してくれ」対策本部長が口火を切った。
「各種食品成分の経口投与試験を生体で行っても吸収不良の原因究明はできないので、小腸の機能を発現しているヒト腸管由来の細胞に様々な食品成分を加え、細胞機能の変化を調べました。その結果、ある種のプリオン蛋白が栄養素の輸送を司るトランスポーターの機能を抑制することがわかりました」
「使用した培養細胞が、小腸機能を正しく発現していると立証されていますか?」
「透過性の膜の上に培養すると自然に単層を形成し、小腸機能である細胞間タイト結合の形成や、ブラシボーダー膜酵素、各種トランスポーター、結合タンパク質、レセプタータンパク質などの活性が現われました。実際の小腸細胞のかなり良いモデルと考えます」
「そのプリオン蛋白は、どのような代謝プロセスで生じたのか判明していますか?」
「代謝ではなく、食品成分に最初から含まれているのです。含有量は、人工遺伝子を導入した耐性動植物由来の食品で顕著です」
「しかし、耐性動植物の利用は数年前からで、その頃こんな問題は起きてないんだから、それが原因とは思えません」
「昔の自然食品ではトランスポーターの機能抑制がないことを実証しましたので、人工遺伝子が関係していることは間違いありません。時間的なずれの原因については、今後詰めていきたいと考えます」
「すると、対策は細胞のトランスポーター機能を遺伝子改良して、プリオン蛋白に対する耐性を持たせることだな」対策部長は深くうなずいた。

 吸収不良症候群は人工遺伝子による細胞機能の改良によって解決された。その威力を目の当たりにして、大気や水が汚染された劣悪な環境に対しても、空気浄化機や浄水器なしで生き残れるような耐性人間を生み出すことで対応できる、という考え方が生まれ拡がっていった。ライフサイエンスの発展により、人工遺伝子の生成および生体導入は容易となり、環境浄化機器の購入より安価になったことも流れを後押ししたのである。

 会社を終えて帰宅した森山は、リビングキッチンのソファに座りメディアセンターを起動した。耐性化処置を受けた今では、環境浄化機器は必要としない。有害な化学物質や重金属類も、細胞が処理して体表突起から放出してくれる。画面に流れるTVニュースによると、環境破壊や乱開発による生態系の破壊が加速して、約2千万種の生物の内4分の3がすでに絶滅し、毎日5万種が今も絶滅し続けている。一方、劣悪な環境下でも繁殖する変異生物が出現しているという。いつの日にか、人工遺伝子を導入した耐性動植物、あるいはウィルス感染によってその遺伝子が組み込まれた生物だけの世界になるのかも知れない。

「ただいま!」玄関口で足音がして、パートナーが帰ってきたようだ。部屋に入ってくるなり投げ出すように荷物を置きながら言った。
「この頃は買い物も大変なの!どこの店も品数が少なくて大勢が押しかけるから取り合いになるのよ。4,5軒回らないと必要なものがそろわない。今日はサービスデーだから余計に大変だったわ。生鮮食品はどれも稀少品扱いで、金持ちでなければとても手が出ない。形と味を真似たもどき食品がせいぜいよ」
「いずれ自然食品なんてものはなくなって、すべて工場で作る人工食品に置き換わっていくんだろうな。ところで、病院の検査はどうだったの?」
「ダメだったの。遺伝子欠陥がいくつかあって不合格だって。受精卵の遺伝子改良が必要だって。環境耐性機能を発現する人工遺伝子の導入も進められたわ」
「欠陥遺伝子の正常化だけでいいんじゃないの?」
「医者は受精卵の段階でやるほうが安全確実で費用も少なくて済むって言うのよ。わたしも初めは気が進まなかったんだけど、生まれてくる子が私達と同じ遺伝形質を持っている方が旨くいくような気がして、やってもらうことにしたの」
パートナーは、小さな体表突起にびっしりと覆われた顔を向けて、森山の目をのぞき込むようにしながら低い声でつぶやいた。森山は鱗状の体表突起に覆われた腕を伸ばして、パートナーの手をしっかりと握った。

 SF短編集の原稿第12弾です。原稿に対するご感想をお寄せ下さい。

「オメガ計画」・・・・・・・・・・・十合ヒロシ
 キャラハンは、オメガ計画室のデスク上に拡げたレポートを、食い入るように見つめていた。その生成脳は、光放射に対して共鳴周波数の極近傍においてのみ鋭く高い応答を示していたのだ。それは脳の微小導波管における意識―量子場共鳴が強くかつ極めてコヒーレントで、単一周波数の高エネルギー共鳴波動が微小管外へ転移したことを示している。従って、この生成脳の微小導波管の構造及び遺伝特性を調べれば、意識―量子場共鳴の転移機能を強化する人工遺伝子設計に重要な示唆が得られる筈である。また、生存を脅かすような環境刺激によっていずれの脳も、閾値よりかなり低強度の磁場で光放射を励起していた。これは微小導波管というハード面だけではなく、知覚-意識というソフト面の強化の必要性を示していた。

オメガ計画室の窓際にある自分の席で、デスク上に山のように積まれたレポートを次々と読み進みながら、キャラハンの目は輝きを帯び、頬は自然と緩んでくるのであった。ここ数ヶ月でオメガ計画は急速に進展し、重要な成果が次々に出てきてキャラハンが提示した研究課題はほぼクリアされた。シェフィールドは過酷環境実験によって、共鳴転移機能が強化された意識脳を育成、セルダンは量子場特性解析によって、共鳴転移ポテンシャルを最大化する微小管の最適構造寸法を算定、スノーは増殖させた多数の微小管の遺伝特性を調べて、最適構造寸法を発現する酵素蛋白群及びそれらを制御する遺伝子群の種類と数を決定した。これで意識―量子場共鳴の転移機能を強化する人工遺伝子を設計することができるわけで、いよいよキャラハンの出番がきたのである。

キャラハンはパッカードと共同開発した遺伝子設計支援プログラム「ジーンデザイナー」を起動した。これは対話形式で入力されたマクロコードに基づいて、遺伝子を構成するDNA塩基配列を生成、変換、複写、切断、挿入、接合するもので、膨大な設計作業を支援する強力なソフトであるが、DNA配列に操作を加えるには酵素系の生化学に関する的確な知識が要求されるので、誰にでも使えるわけではない。モニター画面にはコード入力を促す点滅カーソルが表示されている。キャラハンはヒトゲノムデータバンクにアクセスし、メニューから脳―神経細胞―星形細胞―軸索―微小管を選択してデータのダウンロードコードを入力した。

無菌室はつめかけたオメガ計画の関係者でごった返し、ムンムンする人いきれでエアコンが効かないほどであった。実験台の上に置かれた釣り鐘形の特殊強化ガラス容器の中では、人工遺伝子を組み込まれた新しい生成脳が6個、循環液に包まれてゆらゆらと揺れていた。最前列の特等席にはジェンテック社のランガー、ニューマン、主要研究者のキャラハン、スノー、シェフィールド、セルダン、パッカードらの顔ぶれがあった。

チラッと腕時計に目を走らせたニューマンは、軽く咳払いをしてマイクを握った。
「皆さん、おはようございます。ご多忙中のところ多数お集まり戴きましてありがとうございます。それでは定刻になりましたのでオメガ計画成果発表会を開始致します。先ず、キャラハン博士から成果の概要を説明して戴きます」
ニューマンからマイクを受け取ったキャラハンは、満面に笑みを湛えながら自信にあふれた声で話し始めた。
「キャラハンです。本日ここに念願の成果を発表できる運びになりましたことを、関係者の皆様方とともに喜びたいと思います。オメガ計画はクローン脳の生成を初め、意識―量子場共鳴転移の検証、微小管の構造及び遺伝特性の把握、並びに意識―量子場特性の理論解析、過酷環境での脳の意識ポテンシャルの強化など数々の重要な成果を総合して、遂に強力な意識―量子場共鳴転移を生じさせる最適構造の微小管を発現する人工遺伝子を生みだしたのであります。皆さんがご覧になっている6個の生成脳にはこの人工遺伝子が組み込まれ、意識ポテンシャルの強化訓練も実施済みであります。それでは、これらの生成脳が生存環境の悪化に対してどのようにふるまうかを示すテストをお見せしたいと思います。シェフィールド博士お願いします」

シェフィールドは、マイクを握ると参会者をぐるりと見渡しながら、テスト方法を説明した。
「ご存じのように、生成脳の生存環境は人工子宮システムによって制御されています。一例として、循環液の温度を適正範囲から強制的に逸脱させた時の生成脳の挙動をテストします。温度データは各所に設置したモニターの画面に表示されますので、お近くのモニターをご覧ください。それと温度レベルを音階に対応させてスピーカーでながしますので、モニターが見れない方は音で温度変化を判断してください。循環液の温度は通常21℃±3℃に制御されていますが、テストではこれを40℃±5℃に強制変更します。それでは実験を開始します」

シェフィールドが人工子宮の制御コンソールの前にいる助手に合図すると、助手は手慣れた指裁きでキーボードを手早く操作した。途端にくぐもったピアノの音に似た合成音が室内に響きわたった。
「ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、……」
一方モニター画面には温度―時間チャートが表示され、白い上下限線の間で21℃近辺を変動推移する赤い線が見られた。やがて赤い線はじりじりと上昇し、上限線を越えてなおも上昇し続けていった。それにつれて室内の合成音も高音域に移っていった。
「レッ、レッ、レッ、……ソッ、ソッ、ソッ、……」
赤い線が35℃のレベルに到達したとき、奇妙なことが起こった。設定温度まで後まだ5℃を残しているにもかかわらず、赤い線は35℃レベルで足踏みを始め、それ以上は上昇しようとしないのであった。合成音も同じ音階をしつこく繰り返していた。
「シッ、シッ、シッ、シッ、シッ、シッ、シッ、シッ、……」
しばらくその状態が続いた後、更に奇妙なことに赤い線は降下し始め、じりじりと白い上限線に近づいていったのである。
「ソッ、ソッ、ソッ、……、レッ、レッ、レッ、……」
そして遂に上限線を横切って元の21℃近辺を変動推移するようになった。
「ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、……」

信じられない現象を見せられた参会者の間からどよめきが起こり、口々に自分の思いをぶちまける人々の声が合成音と重なって、狭い室内にワーンと反響した。
「お静かに願います。これは制御不良ではありません。加熱器の消費電力は制御信号に応じてどんどん増大しています。計測機器も異常ありません。ただ実際の温度が設定値まで上昇しないのです」シェフィールドが言った。
「すると、生成脳が温度を下げていると言うのか! しかし、どうやって?」
後ろの方にいた参会者の一人が大声で言った。その質問を予想していたシェフィールドは、用意していた回答を淡々と述べた。
「現象的には加熱器の熱エネルギーが循環液に伝達されないと言うことです。ハード上は熱伝達の阻害要因がないので、生成脳が熱伝達を阻害していると思われます。つまり、生存の危機を感じた生成脳が、加熱器から循環液配管または配管から液への熱輻射、及び熱伝導の生起確率を量子レベルで減少させていると思われます」
「信じられん。マクロな事象の生起確率を操作できるなんて……」

やりとりをじっと聞いていたキャラハンがその時割り込んで発言した。
「お気持ちは分かります。しかし意識ー量子場共鳴の遷移領域で、事象の生起確率が共鳴状態に応じて変化することは、理論的に解析できるのです。オメガ計画はそれを現実化することを目的としています」
「もしそれが本当なら、それは制約を課さないと極めて危険なものになるんじゃないですか?」別の参会者が言った。
「生成脳は生存環境が危険な状態になったとき、それを回復するためにしか意識発動しません。従って危険はないと考えます」キャラハンが答えた。
「フム、そうすると生成脳は何の役に立つんですか? その応用面のことですが…」
「そうですね…、未だ先のことになりますが、例えばバイオプラントや火星植民地の環境維持システムで、その制御パラメータと生成脳の環境因子を相関させておけばロバスティックな制御システムを構成できるでしょう」
「なるほど。ところで開発された人工遺伝子はクローンや人間にも適用されるんでしょうか?」
「フム、難しい問題ですね。私個人としてはそうしたいんですが、それを決めるのは私ではなく議会や政府、いや国民の総意ではないでしょうか?」キャラハンが歯切れの悪い答えを返した。

そろそろ予定の時刻が近づき、質疑も出尽くしたと判断したニューマンはマイクを取って発表会の終了を宣した。
「皆さん、まだまだ議論はあろうかと存じますが、そろそろ予定の時刻になりましたので、本日の発表会はこれにて終了させていただきます。有り難うございました。」
参会者は興奮した口調でペチャクチャしゃべりながら、ガヤガヤと室外に出ていった。

キャラハンは、人工子宮から取り出した赤ん坊を育児ロボットの「ママ」に手渡した。「ママ」はUR社製の最新式のヒューマノイド型ロボットで、ちょっと見ただけでは人間と区別できないくらい精巧に作られている。頭蓋にはニューラルネットワークを構成する多層並列処理プロセッサー集合体が組み込まれ、UR社での出荷前の教育学習によって、育児動作に関する基本パターンが形成されている。このパターンはその後の経験学習によって更新され、最適なものに近づいていくのである。

キャラハンは、書斎でハーブ茶をすすりながら「超神論」を読んでいた。異端の哲学者ノエ・ザメルが唱える超神哲学を開陳した、全三巻からなる膨大な著作である。第1巻は、生命進化の必然性と波動意識の発現、第2巻は波動意識を中核とする進化理論、第3巻は波動意識の階層理論を展開し、それに基づき人類の現階梯と未来のあるべき姿を予見したものだ。簡約すると、人間は明確な目的に基づいて自らの手で自身を改良していき、宇宙で最高位の存在にまで階梯を上り詰める使命を有するというのである。キャラハンが、10年前生成脳の応用研究に限定されたオメガ計画と決別し、人間への適用をもくろんだのは、この「超神論」の影響が大きかった。

ノヴァは、キャラハン開発の人工遺伝子を組み込んだクローン人間である。出生時の遺伝子検査で欠陥がなく、かつ最優良であることから遺伝子カーストの最高位である「パーフェクト人」として登録されている。5歳の時、手が滑って床に落ち砕け散ったガラスコップを、「ママ」が手を伸ばすよりも早く、じっと見つめるだけで入っていたミルクとともに元に戻したことがあった。また、千ピースのジクソーパズルを楽々と仕上げて、キャラハンをうならせたこともある。学校に行くようになると、いじめっ子が階段から転げ落ちたり、プールで溺れたりする事件が頻発したため、疫病神のように気味悪がられて誰も近寄らなくなった。授業はノヴァには易しすぎてつまらないようで、ネットや電子書籍で勉強した大学レベルの知識をもとに、教師に意地悪な質問をしていやがられていた。このような状況をキャラハンは、憂慮とは逆の満足をもって受け止めていた。なぜならノヴァを出発点として、人類の現階梯を一段高めるという自分に課した使命が果たせそうだからである。

主席行政官室で、白いデスクの上に広げたレポートを読んでいるジェンセンの眉間には深い皺が刻まれていた。公安局は期待した成果を上げていないばかりか、袋小路に入り込んでいるようだ。侵入した情報部員が3名も痕跡さえ残さず立て続けに消えるのは尋常ではない。6年前にスノーから連絡があって以来、キャラハンの動きにはそれとなく注目していたが、やはり人工遺伝子を組み込んだ自分のクローンを作り、意識―量子場共鳴機能を発現させたのに違いない。情報部員は事象の生起確率を操作するようになったクローンに消されたと考えればすべて辻褄が合う。クローンがそんなに強力なら軍でも出動させないと駄目だろう、いや軍でも駄目かも知れない。それは国家にとって大きな脅威になるから放置できない。軍の研究所は確率操作クローンを生成できなかったのに、奴はどうやってクリアしたんだろう……。

遺伝子検査法を中核とする優生政策は社会に定着し、難民流入問題は解決されたかに見えたが、第三世界の人口増加と窮乏化は益々エスカレートして、先進諸国との軋轢は先鋭の度を増していた。昨今では遺伝子組み換えの生物兵器を大量生産し、その使用を仄めかせて難民受け入れを迫る国々が増加しており、これに対向するため、先進諸国は核兵器による報復をちらつかせることでバランスを保っているが、いつ何時それが破錠するか知れたものではないのである。もちろん、政府は生物兵器による攻撃を受けた場合を想定して、それを無力化するために国立衛生研究所を中核とする防疫体制を敷いているが、それで完全に阻止できる保証はない。それがジェンセンの頭痛の源泉であった。事象の生起確率を操作できるキャラハンの人工遺伝子は、防疫体制が破れた時の最後の砦としてジェンセンが密かに目を付けていたのである。軍が失敗した確率操作クローンの生成には、キャラハンの協力が必要不可欠であった。

キャラハンが書斎でメールをチェックしていると、公安局情報部長からの暗号メールに目が止まり、こみ上げてくる不安を抑えながら開封した。本文は"添付ファイルをご覧ください"としか書かれておらず、不審に思いながら添付ファイルを開くと、公安局長の署名入りでキャラハンの協力を強要する文書があった。一瞬心がぐらついたが、協力内容にノヴァの国家管理が含まれているのを見て怒りがこみ上げてきた。拒否したときの報復攻撃に対抗できるか確認する必要があると思ったキャラハンは、書斎を出て学習室に入った。
「ノヴァ、ちょっと話があるんだが……」
キーボードの手を止めて振り向いたノヴァは、微かな笑みを浮かべて言った。
「なんだい?」
キャラハンはノヴァの横のソファーに座り、暫しためらっていたがやがて意を決したように言った。
「実は、お前に隠していたことがある。お前の出生のことだが……」
「そのことなら知ってるよ、ディスクで見たから」
ノヴァは気にする様子もなくあっさりと言った。キャラハンは拍子抜けがしてすっかり気持ちが軽くなるのを覚えた。
「そうか、それならいい。話はもう一つあるんだ。今見たら公安局からメールがきていた。確認したいことがあるんでちょっと書斎へきて見てくれんか?」
「いいよ」
二人は書斎に戻りノヴァは公安局のメールを読んだ。眼を閉じてじっと考え込んでいるノヴァを横目で見ながら、キャラハンは遠慮がちに言った。
「色んな武器で同時に攻撃されたら、この前のように防げるかな?」
目を開けたノヴァは皮肉な笑みを浮かべてあっさりと答えた。
「全部は防げないだろうな」
危惧が的中して、キャラハンは不安が高まってくるのを抑えられなかった。
「じゃ、どうする? 軍に協力するしかないのか?」
ノヴァはキャラハンをじっと見つめながらきっぱりとした口調で言った。
「いや、予定より少し早いけど明日引っ越すことにするよ。パパは貴重品を車に詰めといてね。ぼくはパパの秘密ディスクをネットにアップロードするから」
「なんだって! そんなことをしたら世界中で確率操作クローンが作られて……」
続けようとしたキャラハンは、突然それが大変動をもたらすとしても、人類の進化階梯を押し上げるという自分の使命を達成する近道だと悟って沈黙した。その様子を面白そうに見ていたノヴァが静かな声で言った。
「贈り物をどう使うかは受け取った人々に任せればいいと思うよ」
「フム、人類の選択ということか? ところで、引っ越し先はどこなんだね?」
「それはぼくに任せてよ、暖かくてとても良いところだよ」

 SF短編集の原稿第11弾です。原稿に対するご感想をお寄せ下さい。

「ニューロゲン」・・・・・・・・・・・十合ヒロシ
 主席行政官のジェンセンは、解読された暗号メールを食い入るように見つめていた。これでやっと難民対策を強力に推進できる。秘密裏にバイテク各社の研究開発を探らせていたが、こんなにぴったりしたものが出てくるとは、神に感謝を捧げたいくらいであった。管轄下の公衆衛生局に、ジェンテック社の新製品の認可手続きを簡略化するよう指示することは容易であった。

ランガーは、社長はじめ全重役が出席する製品審議会で「シナプス」プロジェクトの成果報告を行い、遺伝子ハンターが地底から持ち帰った「驚異の遺伝子」の製品化を提言した。特許権取得、市場規模、利益率など二、三の質疑応答があったが、ここ数年の業績低迷を打破する強力な新製品を模索していた経営陣は全員一致で賛同し、製品化が決定された。製品開発室に戻ったランガーは直ちに部下を召集し、公衆衛生局への新製品の認可申請手続きを急ぐよう指示した。

一ヶ月後、公衆衛生局から製品販売を認可するとの証明書が送達されてきたのを見て、ランガーはレスポンスの早さに驚いた。従来は申請から認可まで早くても半年はかかっており、おまけにこまごまとした認可条件がついていたのに比べると、一切の条件なしで即認可というのは異例であった。ランガーは、何か見えざる手に動かされているように感じて背筋にゾクッと震えが走った。

営業・販売部門は、ネット及びマルチメディアを駆使した巧妙なPR活動、およびノーベル賞学者のキャラハンを主役とする巡回キャンペーンを展開し、新製品「ニューロゲン」のイメージ浸透を図った。キャラハンのカリスマ性もあって巡回キャンペーンは狙いが的中し、行く先々の会場では入りきれない群衆が周辺の街路に溢れて、交通整理の警官隊まで出動する有様であった。

ネットや科学雑誌には「驚異の遺伝子」挿入マウス「アルジャーノン」の迷路探索における驚異的な認知能力が披露され、マスコミにも大きく取り上げられて職場や家庭での話題の中心になった。しかし、高額の費用負担と一週間程度の入院生活を強いられることから、初めの頃はアルツハイマー等の脳障害患者の治療に使われるくらいであった。それがオリンピック選手やプロスポーツの選手が使うようになり、やがて政治家、弁護士、企業経営者、科学者などの社会の上層部に広がってくると、臨界に達した核反応のように雪崩を打って社会全体に拡大していったのである。

「ニューロゲン」は生産が追いつかないほどの爆発的な売れ行きを示し、ジェンテック社創業以来の大ヒット商品になった。売上高は二次曲線的に増大し、換算すると3ヶ月後には国内人口の30%近くまで浸透したことになるのであった。誰もが人より優位に立ちたいと思っているのだ。この調子でいくと半年足らずで国民全員に拡がる勘定になる。成功に気をよくしたキャラハンは、「ニューロゲン」開発研究に関する著作を出したり、マスメディアからのインタビューや各種団体の講演依頼に積極的に対応し、かねてからの持論である「遺伝子改良による理想的生物への進化」を吹聴して廻った。

白一色の主席行政官室で、パソコン画面のニューロゲン浸透曲線を見ていたジェンセンは、いよいよ機が熟してきたなと思った。これまで流入を規制する適正な理由がないため、十分な成果を上げられず苦しんできた難民流入規制法に、明確な根拠を与えることができるのだ。それもニューロゲンが国民の80%にまで浸透した今では大きな反対もなくできそうである。ジェンセンが半日がかりで作り上げた「遺伝子検査法改正法案」の骨子は、国内居住者及び居住希望者に対する遺伝子検査の合格基準として、従来の法定欠陥遺伝子に関する規定以外にニューロゲン遺伝子の保持規定を追加し、これを満たさない者には断種処置を義務づけるというものであった。

国会審議では野党から、本法案は社会の底辺層に対する差別政策であり、国がニューロゲン遺伝子取得費用を大幅に負担する施策を採らない限り、容認できないとの反対意見が出された。政府は膨大な累積赤字を抱えた現在の国家財政では、新しい財政負担を強いるニューロゲン遺伝子取得費用の捻出は不可能であると回答し、反対意見を一蹴した。野党は一斉に硬化し審議は紛糾したが、今や絶対多数政党となった政府与党は強行採決に持ち込み、賛成多数で可決させたのである。

マスメディアは改正法案の議会通過を大々的に報道し、差別政策を政府与党が強行採決したことに対して厳しく非難したが、ニューロゲン遺伝子の保持規定そのものについては否定していなかった。非保持者に断種処置を義務づけるのであれば、国がニューロゲン遺伝子取得費用の大半を負担すべきであるというのが共通的な論調であったが、例によって各分野の知識人による積極的な賛成意見と、保持規定はおろかニューロゲンそのものに対する反対意見とが入り乱れていた。

「遺伝子検査改正法」が施行された年の夏は各地で連日40℃を越す猛暑が襲い、おまけに湿度が70%近くになるという異常気象であった。ビル、工場、家屋などあらゆる建築物に設置されたエアコンはフル稼働し、電力供給が需要に追いつかずに度々停電する有様であった。エアコンから屋外に排出される熱のために、夜になっても大気温度はあまり下がらず、戸外は蒸し風呂の中のうだるような暑さが続いた。

夕闇の迫る頃、ニューポート市のスラム街の一画に5台のパトカーと1台の囚人護送用トラックが停車し、約20名の警官がばらばらと降りてきた。警官は2名一組で10チームに分かれ、薄汚れた集合住宅の一軒一軒の玄関口に立ちドアをノックした。ドアが開き住人が不興げな顔を出すと、逮捕状を見せながら、有無を言わせず連行しようとした。
「遺伝子検査法違反の容疑で逮捕する!」
「何だと!そりゃおめえらが勝手にでっち上げたもんだろうが!俺達にゃ関係ねえ!」
「つべこべ言うな!文句があったら署まできて言うんだな」
「うるせえ!とっとと帰りやがれ!」
警官を押し出してドアを閉めようとした住人との小競り合いがあちこちで始まり、大きなわめき声や物がぶつかる音が重なって辺り一帯が騒然としてきた。
何事が起こったのかと物見高い近隣の住民が一斉に戸外に出てきて、あっという間に付近一帯は黒山の人だかりができた。
「どうしたんや?喧嘩でも始めやがったか?」
「いや違う。ポリ公がいっぱいきて片っ端からしょっぴいているらしい」
「なんでや?」
「そんなこと知るかい!ポリ公から見りゃ、この地区に住んでるもんはみんな罪人なんだろうよ」
「違うんだよう、学のねえ奴らはこれだから困る。ありゃ遺伝子法違反の奴を捕まえてるんだよう」
「偉そうなことを言ってやがるが、じゃおめえは違反してねえのか?」
「わからねえ奴だな!違反しねえための遺伝子を買う金がありゃ、こんな地区に住んでるわけがねえんだよう」

バーン、パーンと銃声が続けさまに起こり、ボン、ゴーという音がしたと思うと、6本の真っ赤な火柱が立ち黒煙が舞い上がった。誰かがパトカーと護送車にガソリンをかけ放火したらしい。警官達を指揮していた警部補は携帯電話で本部に非常事態発生を通報し、事態収拾のための応援部隊派遣を要請すると、包囲している群衆に拳銃を向けて大声で怒鳴った。
「道をあけろ!命令に従わない者は射殺する!」
怯んだ群衆が退いて空けた隙間を縫うようにして、拳銃を構えた警官達が20名の男女を連行しながらやっとのことで炎上しているパトカーの前に来たとき、手に々銃を持ち血走った目をした男達が出てきて警官達を取り囲んだ。その中の一人が狂ったように叫んだ。
「俺達の仲間をはなせ!さもなきゃお前らみんな生きてここから出られねえぞ!」

応援部隊が駆けつけてきたとき、黒煙を上げて炎上しているパトカーと護送車の周りは血の海で、20名の警官全員とその倍くらいの住民の死体が転がっていた。警官隊は消防署を呼び出して消火作業を依頼し、地上に転がっている警官と住民が全員死亡していることを確認すると、警察本部に死体運搬車と清掃班の出動を要請した。

ニューポート事件の興奮が未だ冷めやらぬうちに、類似の騒乱事件が国内各地で頻発した。後のものほど規模が大きく組織的になっていき、機関銃や手榴弾はおろかどこから手に入れたのか、迫撃砲や小型ミサイルまで持ち出して警官隊を攻撃するものまで現れ、警察力ではとても収拾できない状況になってきたのである。

フロンティア市では、夏の真っ盛りに遺伝子検査法の違反地区に出動した特別機動隊の装甲トラックが、地雷に触れて爆破し、50名の機動隊全員が死傷するという事件が起きた。社会の底辺層の住民だけでこれほどの騒乱を起こせるはずはなく、テロ組織が介入しているのは明らかであった。事態を憂慮した政府は緊急閣僚会議を開き、事態収拾のための対策処置を審議した。これ以上の騒乱の拡大を阻止し迅速な収拾を図るには、果断な処置が必要であるとの国防省長官の意見に全員が賛同し、騒乱の規模に応じて軍を投入することが満場一致で決議された。

かくして軍司令部は、軍団を派遣してすべての騒乱地区を隈無く蹂躙し、抵抗する戦闘集団を壊滅させたのである。司令部の発表によると、推定死者数は軍団で約1万人、騒乱集団で約100万人であった。軍の投入によって表面的には事態は沈静化したが、社会底辺層との緊張関係は解消されず、地下に潜った活動家による非合法活動が頻発し、小さないざこざや警官殺傷事件は跡を絶たなかった。しかし騒乱と言えるほどのものは起こらなくなったのである。夏も終わりに近づき猛暑がひいて行くにつれて、激しかった感情のうねりも静まり、人々は平凡な日々の生活に戻っていった。

「サマー・ウオー」と呼ばれるこの騒乱以降優生政策は順調に進み、遺伝子検査法に基づく欠陥遺伝子の除去及び優良遺伝子の挿入、不適格者に対する断種及び強制不妊処置は社会の常識となった。
政府は国民の遺伝子管理を徹底するため、住所、氏名、年齢、性別、血液型などのデータと遺伝子セットの記号列を組み合わせた個人識別番号制度、いわゆる国民総背番号制を議会に提出した。野党はプライバシーの侵害及び国家統制の強化につながるとして一斉に反対したが、圧倒的多数を擁する連立政府与党は審議不十分のまま強行採決に踏み切り、怒号の飛び交う大混乱のうちに議会を通過させたのである。

総背番号制の施行以後、人は出生と同時に遺伝子検査に基づく識別番号が付与され、国務省の国民データバンクに登録されるようになった。識別番号は義務教育を受ける年齢になったときの入学手続きを始め、就職、結婚、買い物、医療、各種の届け出文書、葬儀等々、生活のあらゆる面で使われるようになり、次第に社会に定着していった。それに伴い識別番号の後半部にある遺伝子セットの記号列が、人間の価値を決める指標として用いられるようになった。例えば学校では遺伝子セットの類似度に基づくクラス分けが行われ、企業は雇用及び配属基準に遺伝子セットの等級を組み込み、適齢期の男女は相手の遺伝子セットを選択ポイントに加えるようになった。

このような風潮は社会の隅々にまで浸透していき、やがて社会は一種の遺伝子カースト社会へと移行していったのである。カーストの最上位は、遺伝子欠陥が皆無で、かつ「ニューロゲン」を始めとするあらゆる現存の優良遺伝子を組み込まれた超一流の科学者、政府要人、超国籍企業の経営者などのいわゆる「パーフェクト人」であり、最下位は遺伝子改良を全く受けていない宗教家、ナチュラリスト、貧困者などのいわゆる「ナチュラル人」である。これらの中間には遺伝子の完全性と優良性の程度に応じて「準パーフェクト」、「ジェンリッチ」、「ジェンプアー」、「準ナチュラル」と呼ばれるカーストがある。

ただし、昔とは違ってカーストは固定されておらず、努力して費用を稼ぎ出し遺伝子セットを改良すれば、個人識別番号の後半部が更新登録され、上位カーストに転移できることになっていた。いわゆるジーンドリームである。そのため、下位カーストの人々は努力せずにだらしなく日々を過ごす人間と見なされて蔑視の対象となったが、現実にはジーンドリームの達成率は100万分の1という極めて低いもので、成功例はマスメディアで大々的に取り上げられるほどであった。

 SF短編集の原稿第10弾です。原稿に対するご感想をお寄せ下さい。

「太陽ニュートリノ」・・・・・・・・・・・十合ヒロシ
 21世紀末、世界各国は食糧とエネルギーの確保にやっきとなり、それに伴って克服されたはずの民族意識が復興し、局地紛争が頻発していた。さらに困ったことに原因不明の異常気象が多発し、食糧生産地帯に冷害や干ばつによる甚大な被害をもたらした。これらの切迫した課題への対応に追われて、巨額の費用負担を強いられる宇宙開発は縮小され、月と火星に設置された小規模の植民地を維持するのが精一杯であった。太陽系外の探査は行われなくなり、人類は内に引きこもって細々と生き延びていた。

奥飛騨にある神臥鉱山の坑内、地下2000メートルの地底には、巨大な太陽ニュートリノ観測装置が設置されていた。直径、高さともに約100メートルの水槽に50万トンの純水が蓄えられ、直径100センチメートルの光電子増倍管が5万本以上取り付けられている。ニュートリノによって跳ね飛ばされた水中の電子が放射するチェレンコフ光を光電子増倍管で捉え、事象の発生数と電子のエネルギレベル及び反跳角度の関係から、太陽ニュートリノのフラックスを観測するのである。まさに地底から太陽を見る巨大な目であった。

神丘光一は、火傷しそうな程熱いブラックコーヒーを一口すすっては満足げに煙草をふかす動作を繰り返しながら、ぼんやりと机上のモニターを眺めていた。観測室の壁には禁煙の札が貼ってあったが、ここにはだれも咎める者はいなかった。観測機器の点検修理の時以外、光一が潜むここ地下2000メートルの太陽ニュートリノ観測室まで下りてくる物好きはいない。観測室は自分の心臓の鼓動が聞こえてくるような気がする程の静けさに満たされていた。騒音過敏症の光一はこの静けさがたまらなく好きであった。

ここに来てもう10年になるが、月に一度地上の観測所本館へ月間報告のために30分程顔を出すときを除いてここを離れたことはない。電気や水道は自由に使えるし、食糧、衣類等の必需品は本館からエアーシューターで支給される。キッチン器具や照明、粗末ではあるが風呂まで備えられていて、優雅なシェルターの趣があった。本館事務所の連中が自分のことを太陽モグラと呼んでいるのは知っていたが、光一はまったく気にならなかった。

観測の仕事はデータ採取から計算処理、結果の出力、電送、保存まですべてコンピュータ制御でなされており、光一がやることは殆どなかった。せいぜい観測機器の故障か異常データの発見くらいしかなく、そんなことはめったに起こらなかった。先月の定期報告で本館事務所に出向いたとき、所長から各地の観測所の最新データも加えて、100年後までのニュートリノの経時変化を予測せよとの指示を受けていた。

今、光一が眺めているモニターには過去100年からの太陽ニュートリノ変動が、青い理論曲線と赤い観測曲線で表示されており、現在時点の位置でカーソルが点滅していた。しばらくするとカーソルが右に移動し、赤と青の点を新しくプロットした。これまでの観測値を単純外挿すると、100年後には理論値の30%以下になる。それは全地球が凍結してスノーボール化することを意味するが、本当にニュートリノフラックスがそんなに低下するかどうかは分からない。40年前に光一は、理論値と観測値のずれを検証し、標準太陽模型の欠陥を指摘していたが、誰も関心を寄せなかった。そこで、ニュートリノの共鳴振動特性を組み入れた非標準太陽模型を提案したのであるが、それでも観測値との差は10%程度縮まっただけであった。何か決定的な要因を見逃しているのだろう。

地球凍結は光一に何の関心も呼び起こさなかった。髪に白いものが目立つようになった光一にとって、100年後の未来というのは現実感が欠如していた。いや、それ以前に今、この観測所のすべてが、光一にとっては厚いヴェールを透かして見る非現実的な風景にすぎず、地下2000メートルの地底の静寂だけが、唯一リアルなものであった。照明を消してベッドに横たわっているとき、深い静寂の中でニュートリノが自分の体を貫通するのを感じることができたし、間近に太陽中心の核反応の鼓動を聞くことができるのであった。コンピュータのデータ処理結果を見なくても、貫通ニュートリノが段々少なくなってきていること、太陽中心の核反応の鼓動が乱れてきていることは以前からわかっていた。
「あれは暗黒物質が太陽の陽子を食ってしまうんで、核反応がエンストするんじゃないのかな?……」光一はぶつぶつと独り言をつぶやいた。

山積する重要課題を抱え、次々に派生する事象の対応に日々追いまくられている各国政府は、世界科学者会議の報告「地球凍結の予測と提言」の重要性は認識したものの、提案された計画を実行に移そうとはしなかった。なにしろ100年も先の話であり、目前の課題に比して現実感がなかったのである。かくして、地球凍結の原因究明と対応策の検討は、科学者団体及びそれに協賛する特定機関に任されたまま、ズルズルと時が経過していった。日々の暮らしに追われる一般市民は、マスメディアを通じて時折、研究の進捗状況を垣間見ることはあっても、どこか遠くの出来事のようで現実感が湧いてこないのであった。

しかし、翌年の夏真っ盛りの8月初旬に、北半球各地をみまった豪雪被害は人々の日常感覚を粉砕し、地球凍結の恐怖をまざまざと予感させる役割をはたした。各国政府の要請を受けて、国連は地球凍結に関する緊急総会を開催、地球凍結解析・対策機関POEFの設置を議決し、実施項目とスケジュールを策定した。こうして人類存続をかけたサバイバルゲームが開始された。

『かくして存続の危機を梃子として、人類は生命のゆりかごである地球から脱出し、10.4光年離れたここエリダヌス座イプシロン星系にレベル1の文明世界を築いたのである。そして・・・』。宇宙考古学者タウは、橙色の手を情報端末に伸ばして読みかけの「宇宙文明史」をオフにすると、まもなく地球調査に飛び立つ予定の恒星船に乗り込むために、ゲートに向けて歩き出した。

SF短編集の原稿第9弾です。原稿に対するご感想をお寄せ下さい。

「深海生物」・・・・・・・・・・・十合ヒロシ

 無人深海艇は海面下10メートルの厚い氷層の割れ目に下ろされ、1万5千メートルの海底を目指してゆっくりと進んでいった。艇外はライトブルーからダークブルーへと暗度を増していき、やがて暗闇に満たされた沈黙の世界が現出した。探照灯の光芒の中でマリンスノーがしんしんと降り続き、時々発光生物の微かな光が明滅していた。深度1万5千メートルに達した深海艇は、ソナーによる海底の地形測量を行い、データバンクに格納されている地形データと照合して目的地までの進路を算定した。

約1000メートルの水平移動後目的とする熱水噴出孔に到着した深海艇は、加圧室と艇外の圧力を平衡させて外扉を開いた。中からはジュゴンに両手をつけたような奇怪な生物がゆっくりと現れ、軽く尾びれを振りながら熱水噴出孔の方へ悠然と泳いでいった。それは、スノーボールと化した地球での生き残りをかけて、ゲノム変生したサイの肢体であった。

深海艇の加圧室で半睡状態だったサイは未だ頭がぼんやりしていたが、体は鮮明な空腹感に引きずられて食べ物の匂いがする方へひとりでに動いていった。そこは海底から噴出する熱水が周囲の海水と循環しながら入り混じり、暖かく活気に満ちた水域を形成していた。周囲はどこからくるのかぼんやりとした薄明かりに満たされていた。熱水中には各種の塩類、ミネラル等の栄養物が含まれているらしく、それらを食餌するプランクトン、甲殻類、深海魚等がむれ集まっていた。

サイは暖かい水流が体を包むのを感じ、純粋な喜びに満たされながら体と尾びれをしならせてそれらの群の中に突入していった。それらの小動物を何度か飲み込んで空腹が満たされたサイは、熱水噴出孔の廻りをゆっくりと周回しはじめた。

右手前方100メートルの所にある岩礁の陰で何かがチラッと視界をかすめ、注視しているとそれは岩陰を出てサイの方にゆっくりと近づいてきた。全長1メートル位で数本の横縞が入った胴体に卵形の頭部と2本の腕が取り付き、朱色の筋が入った背びれと尾びれをゆっくりと動かしていた。その奇妙な形をサイは何処かで見たような気がしたが、思い出せないまま海底に落ちていた棒状のサンゴの切れ端を掴むと、侵入者を追い払うため縄張の境界に近づいていった。

侵入者は争う意志はなかったらしくサイを見るとすぐに縄張の外に逃れ、紡錘型の目でじっとサイを見つめていた。その目を見返していたサイの脳裏に突然どっと記憶がよみがえってきた。
「そうだ!あれはおれと同じように分子機械で改造された人間の変生体なんだ。と言うことはおれもあれと同じような体になっているんだな」
サンゴの切れ端を掴んだ自分の手を見ながらサイは思った。

やがて侵入者は身を翻してやってきた方向に去っていった。去り際に何か音波のようなものを発したが、サイにはよく聞き取れなかった。サイは反射的に縄張根性を出したことでちょっと後ろめたい気がして、今度また侵入者がやってきたらもっとやさしく対応しようと思った。何と言っても自分と同じ種族なんだし、ひょっとするとイルカみたいに超音波で話ができるかも知れないんだから……。

その前に十分な食糧源を確保する必要があるな……。熱水噴出孔の廻りを海底牧場にしてあの小動物たちを大量に増殖させよう。何からはじめれば良いのか今のところサイにはわからなかったが、生存に直結した目標ができたことでサイの心は深い喜びで満たされていた。

手始めに周囲の状況を調べに行こうと思い立ったサイは、自分がいない間他の変生体に対して自分の縄張を明示しておく必要があると考え、熱水噴出孔から半径約5メートルの円周上に手頃の大きさの石やサンゴを並べた。その中で一番大きな石を時計の12時の位置とみなしてその方向をまず調べることにし、サイは尾びれで水を力強く打って元気よく出発した。

熱水噴出孔から遠ざかるにつれて水は急速に冷たくなり、明るさも減少して暗闇が支配するようになっていった。水温の低下は分厚い表皮を持つ変生体のサイにとって何ら苦痛ではなかったが、暗闇で物が見えないのには困惑した。熱水噴出孔の近くの発光生物を集めて松明を作ることも考えたが、とてもこの暗闇を照らす程にはなりそうになかった。目論見がはずれてがっくりときたサイは目を閉じ、こんな暗闇の世界にも適応できるようにしてくれなかった変生体の設計者を呪った。

そのとき、前方に何か大きな物体が横たわっているのを感じて目を開いたが、先程と同じ暗闇が拡がっているだけであった。再び目を閉じて前方に意識を集中すると、中央付近でふたつに折れてぱっくりと口を開いた長細い箱のような形がぼんやりと識別できた。目で見ていないのに何故形がわかるのか不思議に思ったサイは目を閉じたまま体の向きを色々変えてみた。

すると体の動きにつれて識別できる形が連続的に変化し、前方の物体の全体形状がわかるようになってきた。それは座礁し深海に沈んだままになっている豪華客船であった。そして意識を集中した時体内で何かが振動しているのが感じられ、突然のひらめきとともにサイはそれが超音波ソナーのようなものであることを理解した。

熱水噴出孔に戻ったサイは石とサンゴで作ったサークルの中に入り、沈没客船で見つけた工具備品を詰め込んだバッグを一番大きな石の横に置いた。ほっとして、どっと疲れが溢れてくるのを感じて眼を閉じた。
そのうちにいつのまにか眠り込んでしまったのだろう、サイは夢を見ていた。

熱水噴出孔の周辺一帯は広大な海底牧場になっていて、いろんな形と大きさの魚の群が、赤、黄、青の入り混じった鮮やかな色彩の模様をひらめかせながら遊泳し、海底には大小さまざまな甲羅を持ったカニが這い回り、エビがピンピンと跳びはね、貝類が足を出してゆっくりと動いていた。牧場のあちこちに底の浅い餌箱が置いてあり、サイの子供たちが時々見回っては餌を補給していた。

熱水噴出孔の近くにある円筒型の養殖場では、サイのパートナーが稚魚や小エビの生育状態を調べて餌の量を加減したり、熱水噴出孔からの水流を導く配管の入り口の蓋を開閉することで、養殖場の水温を調節したりしていた。パートナーの朱色の筋が入った背びれと尾びれがゆるやかに揺れているのを見ていたサイは突然の既視感におそわれ、あれはこの熱水噴出孔で最初に出会った変生体なんだと直感した。

サイがじっと見ていたのに気がついたパートナーは、顔をあげてサイの方を見ると片手を左右に大きく振って何か言ったがサイには聞き取れなかった。もう一度言ってくれと叫ぼうとして口がまったく動かないのが分かって愕然とし、何度も何度も口を大きく開けて叫んでいるうちに目が覚めた。

未だ鮮明な夢の名残が残るぼうっとした頭を振ってぼんやりと前方を見ていると、朱色の筋が入った背びれと尾びれを持ったあの変生体が、岩陰からこちらをじっと見て片手を小さく振っているのに気がついた。先程の夢とこの前の出会いと今が三重写しになってサイの頭はジーンとしびれたようになった。あれは正夢だったのか? おれは未来を夢で体験したのだろうか? それとも単なる偶然にすぎないのか?

「共時性」と言う言葉がふっと浮かんで消えた。しかし今のサイにとってそれはどうでもよいことであった。いずれにしても先程の夢は自分にとって喜ばしいものであり、今その夢が指し示す未来への入り口にいるのだとすれば、すすんでその入り口をくぐらない手はないとサイは思った。サイは片手をあげて軽く振ると「やあ、こんにちは」と言った。

体内のどこかで何かが振動するのが感じられ、高周波の波が体から出ていくようであった。
「こんにちは、はじめまして」
思いがけずあいさつが返ってきてちょっと驚いたが、サイはそれが変生体に組み込まれた超音波によるコミュニケーション機能であることをすでに直感的に理解していた。


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