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 デヴィッド・ハーヴェイ著「資本の〈謎〉」を読んだ。本書は次の三つの次元に即して恐慌を解明しようとするものである。第一に最も直接的で最も表層的な次元、即ち異常なまでに発達しグローバル化した金融化と証券化の手法、生産に向かわずに株や各種金融商品や不動産への投機に回った膨大な過剰資本、高度な数式モデルに基づくリスク評価と複雑なリスク分散の手法等々である。第二にこれらの起源を解明するための新自由主義化と金融資本主義化、そしてアジア諸国の経済成長と冷戦の崩壊を伴う資本のグローバリゼーションである。第三に資本主義そのものに、強力な恐慌傾向、投機的傾向が内在しているのなら、それ自体を解明する最も根底的で普遍的な次元である。

2008年金融恐慌の究極の根拠が資本の運動そのものに内在する種々の制限/障壁にある。資本は物ではなく絶え間なく運動する一個の過程であり、流れである。その全体としての流通ないし循環の過程の各結節点において、その流れを妨げる固有の閉塞ポイントが存在する。資本の流れは大きく三つの部分に分かれる。第一は、生産過程を開始する準備段階としての貨幣資本の集積である。現代においては、その集積過程において信用が決定的な役割を果たす。従って貨幣資本の集積が一つの制限となりうる。

第二は資本の生産過程そのものである。生産を開始するには集積した貨幣資本で生産手段と労働力を入手しなければならない。生産手段の購買は資本を「自然との関係」という厄介な問題へと巻き込む。つまり、自然そのものの限界が資本の限界として現れる。労働力の購買は、旧社会秩序の解体や相対的過剰人口の創出、労働力の地理的移動といった問題へ連結する。さらに、生産過程の内部においても種々の制限が存在する。一つは、資本主義的生産にふさわしい技術と組織形態の確立という問題がある。二つ目に、その過程内部における唯一の主体的存在たる労働者に対する統制という問題がある。

第三は、その生産過程から再び出てきた資本が自己の価値を市場において実現する過程である。ここでは、有効需要と市場問題が重大な制限として登場する。

これらの制限/障壁が深刻に資本の流れをせき止めれば、恐慌となって事態は爆発する。資本はこれら種々の制限を絶えず克服するか回避しようとする。しかしこれらの克服ないし回避は、別の制限、別の障壁をつくり出す過程でもある。現実の貨幣資本を集積することの困難という制限を回避するために信用創造やレバレッジが用いられるなら、それ自体が処理に困るような膨大な擬制資本が形成される。

労働力確保の困難や労働者の反抗という制限を回避するために、労働節約型技術が採用されれば、それは大量の失業をつくり出し市場問題を悪化させる。現実の生産過程に伴う多くの制限をすべて回避しようとして、不動産や金融商品へと資本が流れるが、それは投機的熱狂をもたらす。市場問題を回避するために、(生産的消費と個人的消費において)借金を通じた架空の需要が大量につくり出されれば、それはまさに2008年の金融恐慌に見られたような事態を準備する。

このように、資本のうちには、恐慌を誘発しうる多くの制限が存在するというだけでなく、それらの制限を回避する各々の努力それ自体にも恐慌を誘発する別の制限を(場合によっては、回避しようとした制限以上に大きな制限を)つくり出す傾向が本質的に備わっているのである。

このような内在的諸限界を持つ資本は、「終わりなき資本蓄積」と「永続的な複利的成長」という基本原理が一個の体制ないしシステムへと(つまり資本主義として)成長転化する過程で、必要不可欠な七つの「活動領域」が複雑に相互作用しあいながら一個のシステムへと共進化していく。その七つの「活動領域」とは、生産過程、技術(および組織形態)、日常生活の再生産(人口の世帯的再生産を含む)、社会的諸関係、自然との関係(「第二の自然」との関係を含む)、世界に関する精神的諸観念、社会的・行政的諸制度である。

資本主義は、新自由主義的反革命によって、金融恐慌に見られるようにその本来の野蛮な姿を露にしつつある。なすべき課題は、この剥き出しの資本主義に再び社会的・経済的公正や福祉国家というイチジクの葉を付けることではなく、資本主義そのものを克服することである。つまり、極めて困難な課題であるが、資本主義のシステムそのものから離脱する必要があり、世界各地で芽生えている反資本主義運動が注目される。

その際、先に明らかにした「七つの活動領域」を横断し、それらの各領域の変革と相互作用しながら全体としてのシステムを変革していかなければならず、この過程を「共-革命的」過程と呼ぶ。その担い手としては、二つの資本蓄積様式(「拡大再生産による蓄積」と「略奪による蓄積」)による搾取、略奪、排除の被害にあう人々を変革主体として想定する。これらの諸主体内部および諸主体間の同盟を構築することが決定的な鍵となる。

 ジョン・ダワー著「戦争の文化(下)」を読んだ。本書は前著に引き続き、戦争を人間の文化の一種ととらえ、「戦争の文化が常に我々に付きまとうのはなぜか」という人類史的問題に取り組んだ大作の下巻である。

本書が言う「戦争の文化」とは、「選択としての戦争」すなわち先制攻撃への衝動、大国意識による傲慢、希望的観測、内部の異論を排除して戦争に走るグループ思考、宗教的・人種的偏見、他者の立場に対する想像力の欠落、説明責任の無視、無差別殺戮、拷問、虐待といったものである。こうしたソフト面とともに、ハード面ではつねに相手よりも優位に立とうとして「発達」し続ける兵器体系も含まれる。

日米戦争における米軍による空襲は、日本人に恐怖を与えるためのアメリカによるテロ爆撃であった。無差別テロは、イスラム過激派に先駆けて、英米の爆撃機が組織的に行っていたのである。多くの人命を守るために多くの人命を奪う現代戦では、人間が単なる数字に還元され、人道意識は麻痺しがちである。遠くから見るB29の姿と空襲の火災を「美しい」と感じる少年の倒錯した感覚も、戦争が生む「文化」のひとつである。

原爆投下はアメリカによるテロ爆撃の頂点であり、ソ連とアメリカ国内の共和党に向けた政治的行為でもあった。原爆製造と投下決定に携わったアメリカ人の逡巡と苦悩。巨額をつぎ込んだ科学と国力の達成を現実の破壊によって実証したいという願望。巨大な破壊によって、自分たちが神のような力を持ったという絶頂感。こうした合理的のようでありながら同時に野獣的な人間性にまで考察は及ぶ。

戦争の継続として行われた軍事占領は、国家建設のプロセスでもあったが、失態に終わったアメリカのイラク占領に比べて、日本占領は国家建設の成功例として語られることが多い。しかし本書によれば、日本占領にもマイナス面があった。例えば、「平和に対する罪」や捕虜虐待などの日本の戦争犯罪は裁判にかけられたが、訴因や手続きの正当性をめぐって、今も議論が絶えない。

また、戦勝国は何十万人という日本兵の帰国を遅らせ、強制労働や戦争に使役した。こうした問題について、その後の国際法は見るべき発展を遂げなかった。そのため、イラク戦争や米軍による捕虜虐待に対しても、国際法による規制は弱いままとなった。もともと近代国際法は、「非文明人」に対する無差別殺戮を規制の対象にしていなかった。戦争を規制すると同時に許容し、包括的だが実効性の乏しい現在の国際法は、「戦争の文化」の一部ということになるだろう。また、日本の軍事占領もイラク占領も、アメリカの軍事拠点の確保の手段とみなされた。

日本を占領した当時のアメリカと、イラク戦争に突入した21世紀のアメリカでは、どちらも表面では「自由と民主主義」というレトリックを使っているが、意思決定のあり方も実際の行動も、ずいぶん変わってしまった。戦後アメリカは、いわば自身の戦争の文化によって自国の「国家建設」を行ったともいえよう。

このようにみると、戦争の文化に気づかせるために歴史は繰り返しているかのようである。そこからの出口の光は鈍い。東アジアや南アジアが欧米のインパクトによる受難を自力で克服してきたのに対して、イスラム世界では同じような歴史をいまだにテロ犯罪の正当化に用いている。

だがそれでも、著者はその光を見出そうとする。一つの光は、宗教や文化の違いを超えて、人類共通の理想を語る言葉が確かに存在することである。無差別テロを理論化したイスラム学者にも理想への憧れがあるし、神、平和、共存など、キリスト教とイスラム教に共通する言葉もある。そこに対話と相互理解の糸口もありうる。

そしてもうひとつの希望の光。著者は、アメリカに比べて日本には反戦の文化が根を張っているという。日本では、二度と戦争への扇動に「騙されない」という感情が一般的である。そのうえで、日本は多元的な価値が許容され、人々は旧敵国との友好にも抵抗を示さない。
「戦争の文化」の自覚がないために愚かな戦争が繰り返されるのだとすれば、「戦争の文化」の自覚による「戦争の文化」からの脱却のプロセスがすなわち「平和の文化」なのであり、本書はそのためのパイオニア的な歴史研究であると言えるだろう。

 内田樹・白井聡著「新しい戦前」を読んだ。2023年は戦前ではなく、ほとんど戦中になっている。ウクライナの次のアメリカの代理戦争の場は台湾と日本。岸田大軍拡は、そのシフト、アメリカのために出てきたものと解釈できる。安保関連3文書はアメリカとの綿密な打ち合わせ、調整、擦り合わせのもとに出てきた。台湾有事が米中覇権戦争に発展し、中国が日米同盟を結ぶ日本に核攻撃をしても、アメリカは相互確証破壊に基づき中国に核攻撃できない。

日本政府はその可能性を認めて、今、米軍基地や自衛隊基地に対する大量破壊兵器(核兵器、化学兵器、生物兵器)による攻撃に対する防衛策を進めている。確たる国家意思によるのではなく、思考停止の対米従属でこうなっている。それをこの社会はどう認識しているのか。ほとんど無批判に大軍拡が進んでいる。まさに生ける屍、すでに死んでいるというのが2023年の日本の光景である。

「戦争ができる国」への安全保障政策の大転換に日本人が無反応なのは、「自分たちは日本の主権者ではない」という無力感の現れだ。メディアも国民も、方向転換はアメリカの指示であり、「ホワイトハウスの意向に迎合する政権が安定政権だ」ということを刷り込まれているからだ。今の日本の政治家には日本の安全保障について自前の戦略を考える能力も意思もない。そのことを日本国民は知っている。与党政治家は自分たちの政権の延命、自分の利権のことしか考えていない。それに比して、アメリカの安全保障戦略は洗練されており、それに従った方が安全じゃないかと思えてくる。

アメリカからの敵国ミサイル発射情報に基づいて、日本が反撃能力=敵基地攻撃能力を使いミサイルを敵国に打ち込んだ場合を想定して、アメリカは梯子を外して「日本が勝手に国際法違反の先制攻撃をしただけで、そんな国を助ける義理はない」と言えるオプションを、安保関連3文書、それに基づく岸田大軍拡を通じて仕込んだのではないか?

日本の先制攻撃に対する敵国の反撃対象は、当然戦力が集中している米軍基地となり、米軍兵士やその家族、関係者を含むアメリカ市民から多数の死傷者が出るということになると、「梯子を外す」という手は使えない。日本が始めた偶発戦争がアメリカに累を及ぼさないようにするには「日本列島から米軍基地を撤収」し、米軍の対中国・北朝鮮の前線をグアム・テニアンのラインまで下げるというプランがオバマの時代にも検討されていた。

在日米軍は何があっても日本にある米軍基地利権を保持し続けたい。兵器産業は日本政府が兵器を山ほど買ってくれるなら、別に在日米軍基地などなくても構わないと思っている。ホワイトハウスはグアム・テニアンの線まで米軍を下げたがっている。つまり日本国内に大型固定基地を維持したいと願っているのは在日米軍だけだが、日米合同委員会を通じて「米軍の意思」を「アメリカの国家意思」であるかのように日本政府に吹き込んでいる。

日本経済の構造や食料自給率と、食糧輸入先の第2位が中国であることに鑑みれば、中国と戦争などできるはずがない。しかし、起こるはずのない戦争が実際に起きたというのが歴史の現実でもある。第一次、第二次大戦もそうだった。

加速主義というアメリカ発の思想がある。もう資本主義は末期で、これから世界はポスト資本主義の社会に入っていくが、民主主義や基本的人権や社会正義といった古めかしい近代主義イデオロギーのせいで、資本主義はむしろ延命している。むしろ資本主義を暴走させて没落を加速し、資本主義の「外部」へ抜け出るべきだという思想である。そのためには、政府は市民的自由に干渉せず、社会福祉や公教育、国民皆保険制度などはなくす。大阪の有権者の中にこの加速主義的傾向が広がっていて、それが維新の政治をドライブしているのではないか?

日本維新の会は典型的な加速主義政党である。加速主義的な政治勢力は「社会的共通資本」を標的にする。大阪維新がまずやったのは、公務員叩き、次に公共交通機関の民営化、医療拠点の統廃合、そして学校の統廃合である。安定性・継続性が命である社会的共通資本を政治的・経済的変化によって激変する複雑系に作り変えた。

 斎藤幸平編「コモンの自治論」を読んだ。戦争、インフレ、気候変動など、様々な困難が折重なって、一筋縄では何も解決しない危機の時代に突入している。資本の終わりなき利潤獲得が、地球という人類共通の財産=〈コモン〉を痛めつけたせいで、もはや地球環境は修復不可能な臨界点に近づいている。その帰結が、「人新世」の複合危機だ。

「人新世」の危機が深まれば、新自由主義の楽観的考えは終わりを告げ、大きな国家が経済や社会に介入して、人々の生を管理する「戦時経済」に変わり、資本主義の危機となる。そして民主主義の危機をも引き起こし、全体主義が到来する。
こうした最悪の事態を避けるために、「コモン」の再生、共同管理を通じて「自治」という道に進む必要がある。

本書は、七人の執筆者がこの困難な時代を認識したうえで、「自治」の力を日本社会で取り戻すためのヒントを提示しようとしたものである。ハーバード大学の政治学者エリカ・チェノウェスによれば、3.5%の人々が立ち上がることで社会は変わる。その第一歩を、私達は今こそ決意して、踏み出すべきである。

しかし、「自治」について考えようとする時に直面するふたつの困難があった。一つ目は、「自治」が大切だと言われても、自分たちの手で社会を変えられるという道筋を具体的に思い描くことが難しいという問題。そもそも「自治」をするための力を私たちは失ってしまっている。このことは、面倒な政治の意思決定は、AIやアルゴリズムに任せてしまえばいいという「無意識データ民主主義」の改革提案が注目されていることからもわかる。

もう一つは、どにような「自治」を目指すべきなのか、定義するのが難しいという問題。例えば、カルト宗教団体や陰謀論の政治団体、排外主義の差別団体も自治組織と言えなくはない。つまり、「良い」自治と悪い「自治」を区別する必要があるが、その基準とは一体何なのか。

私達が、社会や政治について投げやりで無関心な存在になった原因として、資本主義による「包摂」の問題が重要である。つまり、生産の「構想」が資本の側になり、労働者は、資本の「構想」に沿って出される命令を「実行」するだけの受動的な存在になっていく。この「構想」と「実行」の分離がもたらす労働者の馴化は、産業革命以降の資本主義の発展を見つめていたマルクスが危惧していた事態である。

この「包摂」は生産の次元に留まらない。資本の支配が私たちの内面にまで及び、貨幣や商品に振り回される生活を当たり前のこと、望ましいこととして、内面化していく。これが「魂の包摂」である。つまり、資本主義のライフスタイルを積極的に受け入れ、その枠内で、自分の利益や効用を最大化しようとする人が増えていく。

資本主義的なコスパ思考を続けていくと、究極的には、コミュニティや公共の問題などを考えるのは無駄な行為でしかないという結論になり、公共的な関心が失われていって、民主主義の危機を増幅していく。反緊縮派が重視する「上からの改革」では「構想」と「実行」が分離されたままで、民主主義や「自治」に必要な私たちの能力は回復しない。それどころか、「上から」の改革を効率よく推し進めるために、民主主義は犠牲にされ、最終的には自由や平等が今よりも失われてしまう危険性がある。

国政選挙ばかりを重視する政治主義は、政党政治をさらに保守化し、コスパ思考を自明視すれば、社会運動の現場さえも保守化していき、NPOやNGOが「行政の下請け化」していく。また、個人投資の推進によって、大企業の株価が維持されることが多くの有権者の関心事となり、国民は保守化している。そして、社会の価値観を変えようとする社会運動は「過激」として排除されていく。

制度や政策をいじっただけでは社会問題は解決しない。制度や政策は、人々の規範意識によって形成され、運用される。だから、いくら「上から」の改革があっても、現場の運用が変わらないなら、人々が救われることは決してない。「自治」をする能力が市民社会の側に欠けたままでは、何をやっても事態は改善しない。重要なのは、権利を要求する社会運動の方が力を持つこと。つまり、「下から」の変革のためには、一人一人の「自治」の力を養うことが欠かせない。

マルクスは、トップダウン型の法制度改革を「法学的幻想」だと批判し、「下から」の変革を重視した。具体的には、「自治」を育むボトムアップ型の組織「アソシエーション」を広げていくことが、社会を変えていくための基礎だと考えた。この考え方を参照すると、資本主義を批判した20世紀型の左派運動の限界がどこにあったかもよくわかる。

20世紀の左派による社会変革構想の特徴は、垂直的で中央集権的な組織原理を前提にしていた。そのため、一部の特権層やマジョリティの関心や利益ばかりが優先される、非民主的なシステムが支配的になっていき、その結果として、社会主義や福祉国家への批判が強まっていった。これを利用して、新自由主義が「自由」や「民営化」を打ち出し、支持を広げていった。しかし、過剰な市場競争や民営化を招き、「魂の包摂」が進み、コミュニティは解体され、さらに市民の「自治」の能力が奪われていった。

21世紀の新展開としては、水平的ネットワーク型の社会変革がある。2011年、リーマンショック後の格差社会の下で、世界各地で市民たちによる座り込みの抗議活動が始まった。「ウォール街占拠運動」は旧来の垂直型の運動を批判し、水平的ネットワーク型の運動を展開しようとした。そして、「ブラック・ライブズ・マター」、「フライデーズ・フォー・フューチャー」、「エクスティンクション・リベリオン」、「エンデ・ゲレンデ」と続く。

しかし、ウォール街占拠運動に対して批判もある。一つ目は、運動の中心になっていたのは、経済的・時間的な余裕のある人々で、掲げたスローガン「99%]の中に存在している格差を不可視化していたというもの。二つ目は、直接民主主義の過剰な理想化に対する疑問である。つまり、小規模の直接民主主義は、グローバル資本主義という巨大な敵を相手にするには意味がないと。三つ目は、水平的な運動ではバラバラな意見を取りまとめることができず、結局、資本主義に代わるような新しい仕組みを提示することもできないと。

ウォール街占拠運動の後、社会運動の側も新しい形を模索するようになっていく。ネグリとハートも自分たちの立場を変更し、著書「アセンブリ」で、リーダーの下で「制度化」や「組織化」を行う必要性を認めるようになる。つまり、資本主義を変えるためには、法制度の変更が必要だし、そのためには、大衆の組織化が求められるという。

ただし、20世紀型の民主集中制のように、指導者が長期的な「戦略」を練り、命令し、大衆運動がそれに追従しながら、現場の短期的「戦術」を担うという上意下達の関係ではなく、大衆の方が先に「戦略」を考え、政治家やリーダーたちがそれを実現させる「戦術」を考えるという「逆転」の方法である。

本書に示す具体例では、岸本聡子の東京都杉並区の区長選挙がある。先に市民が作った政策集があり、これが「戦略」にあたる。一方、「戦略」をいかに実現させていくかという「戦術」は、区長となった岸本が担う。重要なのはあくまでも、主導権が大衆の側にあるということ。逆に、指導者はその時々に担ぎ上げられる存在に過ぎない。

最近では、ヨーロッパを中心にして、都市や市民の国際的ネットワークを形成するようになった。スペインのバルセロナでは、「バルセロナ・エン・コムー」という市民プラットフォームが立ち上がり、アダ・クラウという社会活動家が2015年には市長として当選するまでになった。これが「ミュニシパリズム」(地域主権主義)と呼ばれる動きである。上述の岸本聡子の杉並区長当選は日本でのミュニシパリズムの具体例である。

ミニュシパリズムは、いきなり国政選挙を目指して国のあり方を変えるのではなく、まずはローカルな自治体を変えようという動きと言える。地方自治体程度の規模であれば、市民たちの意見も反映されやすい。それに、自分たちの暮らしや地域の問題を解決するのであれば、むしろ自治体における議会や首長の方が大切なわけである。そして自分たちのなかから立候補者を選び、地域を変えていこうとする動きが台頭していく。

 岸本聡子著「地域主権という希望」を読んだ。近年の極右の台頭、新自由主義による格差の拡大、既存の左派政党の転落、気候変動と言った複数の危機のなかで、「ミュニシパリズム」が確かな希望として急成長している。
本書は2022年6月19日投票の東京都杉並区長選挙で、市民団体の支援を受けて初めて選挙に立候補し当選した著者の目指す社会構築の基盤としての、「ミュニシパリズム=地域主権」の発生経緯、目標、具体例を述べたものである。

地方自治体の意である「ミュニシパリティ」からきているミュニシパリズムは、政治参加を選挙による間接民主主義に限定せずに、地域に根付いた自治的な民主主義や合意形成を重視する考え方だ。ミュニシパリズムを掲げる自治体は、市民の直接的な政治参加、公共サービスの再公営化や地方公営企業の設立、公営住宅の拡大、地元産の再生可能エネルギーの促進、行政の透明性と説明責任の強化といった政策を次々に導入している。

2018年11月に欧州議会内で開催した「ミュニシパライズ・ヨーロッパ!」と題する討論会には、バルセロナ、ナポリ、グルノーブル、アムステルダム、パリ、コペンハーゲン、ルーベンの副市長、市議たちが登壇した。いずれも近年の選挙で市政与党となった議員たちだ。

イタリアでの実践例として、市民が2011年に国民投票によって、水道事業から利益を上げることを禁止する憲法改正にこぎつけたが、多くの自治体が利益追求型の水道サービスの形態を変えなかった。そのなかで、マギストリス市長率いるナポリ市は、全国に先駆けて水道サービスの公的所有を確立し、水をコモン=公共財と位置付けた改革を行った。

バルセロナでは、進歩的な地域政党「バルセロナ・コモンズ」が市民運動から誕生し、2015年の地方選挙で勝利した。バルセロナはミュニシパリズムの先駆的・中心的な存在で、様々な既得権益と闘いながら、市民とともに変革を進めてきた。
2018年12月、市は100件目となる市立保育園の設置を実施、22件目となるアパートの買い取りを行い、今までで最大規模の114世帯が入居できる公営住宅が誕生した。

バルセロナ・コモンズが市政を担当してから、合計で8960世帯分の公営住宅を新たに供給できたことになる。その他にも、低所得世帯が利用できる公営の葬儀サービス会社の設立、DV被害者救済サービスの再公営化、地元産の自然エネルギー供給公営企業を設立し、いずれも軌道に乗せている。

バルセロナ・コモンズの理論的支柱でもある第一副市長のジェラルド・ピッサレロは、経済の民主化、連帯、ミュニシパリリストのビジョンとその国際連携によって極右の台頭に対抗することを提案する。この国際主義こそ、ミュニシパリストが地域的な保護主義と一線を画する最大の特徴である。

ミュニシパリストが国際連携しネットワークするというこの考えを、バルセロナは2016年に「フィアレスシティ(恐れぬ自治体)」の設立を呼び掛けることで具体化させた。フィアレスシティは、抑圧的なEUや国家、多国籍企業、マスメディアを恐れず、地域経済と地域の民主主義を積極的に発展させることへの制裁を恐れないと謳う、住民と自治体の国際的なネットワークだ。2018年はニューヨーク、ワルシャワ、バルパライソ、ブリュッセルでフィアレスシティ会議が開かれた。

グルノーブル市は、フランスで2006年に水道サービスを再公営化したパイオニア。現在、同市は温室効果ガスの低減に向け、暖房や街灯などをすべて地元のエネルギーサービスで賄うべく、エネルギーの再公営化を目指している。再公営化は環境的な目的だけでなく、電気料金の支払いができない世帯を守る料金体系を設定する、社会的な政策も可能にする。

学校給食についても常に公共の管理のもとに置いており、さらに現在は地元産の100%有機食材使用を目指している。また、グルノーブル市には市民参加型予算制度があり、この枠組みを使い、市民の要求が予算化されて、市立図書館の閉鎖を回避できたこともある。

アムステルダム市は、Airbnbの規制にいち早く乗り出し、Airbnbの民泊を年間30日までと限定した。企業や資本家がAirbnb用に不動産を買い占めることが問題になっていて、他の首都同様、アムステルダムの住宅不足と価格高騰は深刻かつ緊急課題だからだ。

国家主義や権威主義を振りかざす中央政府によって人権、公共財、民主主義が脅かされつつある今日、ミュニシパリズムは地域で住民が直接参加して合理的な未来を検討する実践によって、自由や市民権を公的空間に拡大しようとする運動だと言える。具体的には、社会的権利、公共財(コモンズ)の保護、フェミニズム、反汚職、格差や不平等の是正、民主主義を共通の価値として、地域、自治、解放、市民主導、対等な関係性、市民の参加を尊重する。

ミュニシパリズムは普通の人が地域政治に参画することで、市民として力を取り戻すことを求め、時にトップダウンの議会制民主主義に挑戦する。政治家に対しては、地域の集会の合意を下から上にあげていく役割を、100%の透明性を持って行うことを求める。

日本では、2018年に安倍政権によって種子法が廃止された。これに対し、2018年12月、岐阜県議会が「種子条例」を制定すると報じられた。種子の安定供給に、国に代わって県が責任を持ち、市場任せにしないことを岐阜県は明確にしたことになる。埼玉県、新潟県、兵庫県、山形県も、種子法廃止と前後して、種子の安定供給を促す条例をすでに制定し、2022年6月時点で31道県が種子条例を制定している。

また同年12月には、多くの懸念を残しながら、コンセッション方式を含む改正水道法が成立した。これに対して福井県議会は「水道法改正案の慎重審議を求める意見書」、新潟県議会は「水道民営化を推し進める水道法改正案に反対する意見書」を提出した。このような地域主権、地域自治の表明は、民主的な議会での議論や地方自治をないがしろにし続ける強権的な中央政府を持つ国では、特に重要である。

ドイツのヘッセン州北部の小都市ヴォルフハーゲン(人口約1万4000人)は、2005年にいち早くドイツ系電力多国籍企業エーオンと20年の契約を経て決別し、送電線を再公営化した。同時に、新設された市営電力公社シュタットベルケ。ヴォルフハーゲンの共同オーナーに地元のエネルギー協同組合を迎えることで、市民と自治体が協働する電力モデルのパイオニアとなった。そしてヴォルフハーゲン市は、目標より1年前倒しで、2014年に再生可能エネルギー100%という供給目標を達成した。

スペイン南部アンダルシア州の都市カディス(人口12万人)は、2015年と2019年の地方選挙で連続してミュニシパリズムを標榜する市民政党が勝利し、半官半民の電力会社「エレクトリカ・デ・カディス」を100%再生可能エネルギー供給会社にする改革が進んでいる。

英国南西部の小都市プリマスでは、10年以上にわたる国の厳しい緊縮財政による社会的支出の大幅削減を反映し、住民の健康や公衆衛生が大きく後退し、子供の貧困率、電力貧困世帯率がともに40%に上っている。市議会は、これらの問題解決のために、のちの地域住民の組織であるプリマス・エネルギー・コミュニティ(PEC)を対等なパートナーとして位置づけ、その立ち上げに協力した。

PECは、地元住民が所有する太陽光などの再生可能エネルギーインフラを作り、生まれた収益は、市民投資家に還元した後、サービス向上や料金値下げとして利用者に還元される。さらなる余剰金は、電力貧困世帯を支援する社会プログラムや他のコミュニティプロジェクトの運営に充てられる。

外国企業などではなく、公的機関と住民が所有し、民主的に管理することで、気候変動や不平等という今日的な難題を、地域の力を蓄える前向きな課題に変換できる。国家やEUは、気候変動対策として、市民や自治体が自律的に実践するジャスト・トランジションを公的資金によって支援し、公共政策で他のどこでも実践できるように拡大してほしい。無駄にする時間は一秒もないのだから。

2020年のフランス地方選挙では、8の主要都市で「ヨーロッパエコロジー・緑の党(EELV)が勝利し、7人の「「緑の新市長」が誕生した。選挙運動のなかで、フランス全国に410ものミュニシパリズムに基づく「市民コレクティブ」が誕生し、選挙戦を戦った。市民コレクティブとは、左派政党だけでなく市民団体や社会運動体、個人も加わって、市民参加型の候補者リストを一緒に作り上げていく選挙運動の形のこと。

ヨーロッパのNGO活動から東京都杉並区長選挙当選までの「下からの民主主義」を追求してきた著者の体験記については、前著「私がつかんだコモンと民主主義」を参照。


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