白井聡著
「主権者のいない国」を読んだ。本書は、「統治の崩壊」というべき段階にまで陥った日本の政治、そしてそれを必然化した日本社会についての分析・考察をまとめたもの。
第一章には安倍・菅政権に関する論考を集めた。2012年以来継続してきた自公連立長期政権は、日本の「戦後」という時代がその土台喪失にもかかわらず無理やり維持されてきた、その矛盾の爆発的な露呈の表現であり産物である。その矛盾の本質を提示し、矛盾がいよいよその最終的な自己破壊の過程に入り込んでいる様子を分析する。
第二章は、新自由主義社会批判を主題としている。悲惨な政治を支えてきた基盤は、結局、日本社会自体、日本人自身の悲惨さである。社会が劣化してしまったのは、新自由主義が政策を支える単なるイデオロギーではなく、一種の文明の原理と化し、人々の魂の中に入り込んでいるからである。その諸相を、新自由主義の同伴者たる反知性主義に対する分析とともに提示する。
第三章は、現代日本の閉塞を形づくるもう一つの文脈としての特殊日本的事情=近代天皇制を分析した。平成から令和への改元の過程で際立っていたのは、安倍政権による改元・元号の「私物化」だった。世論は、天皇の意思による生前退位の意味を深く受け止めることもなしに、改元をやり過ごした。そこにも社会の劣化の一端が現れているが、それは明治日本が創作した近代天皇制の一帰結にほかならない。
第四章では沖縄と日韓・日朝関係を取り上げる。戦後日本の「平和と繁栄」のバックヤードが沖縄と朝鮮戦争(およびその帰結としての南北分断の固定化)であった。従って、戦後レジームの破綻・崩壊は、本土と沖縄の関係、日韓・日朝関係の不安定化や緊迫において劇的に現れる。その緊迫の諸相を考察することは、戦後の本質に対する理解に資するところ大である。
第五章は、今日の苦境を抜け出し、より良き未来への希望を懐けるためのキーワードとなるのは「歴史」と「記憶」であることを提示する。現在の権力は、最悪の形で記憶を利用している。「東京五輪2020」と「大阪万博2025」というのがそれだ。戦後の終わり、戦後レジームの崩壊的解体の混迷に対する処方箋として戦後の発展の栄光の記憶を持ち出すことにより、さらなる「否認」の泥沼のなかで人々を眠り込ませようとする一方で、その内実はイベントにかこつけた公金の分捕り合戦に過ぎない。私たちの想像力を豊かにするような歴史と記憶の想起はいかにして可能か。素材を求めて試みた論考を提示する。
安倍政権は長期の失政を糊塗し、成功の外観を装うために嘘を重ね、「公正」や「正義」といった社会の健全性を保つために不可欠な理念をズタズタにした。そして、国土や国民全体を私物化し、法治国家の根幹を揺るがせ、社会全体を蝕んできた。
安倍政権を支えてきた制度・機関の筆頭はマスメディアである。メディア機関の経営トップが権力と癒着・忖度し、その下で働く者たちの層へトリクルダウンする。特に政治部は、権力と監視者との間にあるべき緊張感を完全に失い、政府の公式見解の伝動ベルトへと化してきた。
政権末期の健康不安をめぐる演出は、「民意によって追い込まれての解散」という現実を誤魔化し否認するための手の込んだ工作に他ならない。この工作は、安倍個人の自己保身のみならず、民衆の力を否認し、民衆に自らを無力だと感じ続けさせる罪深いものだ。安倍政権は、民衆が自らの力を自覚してしまうことを極度に恐れていた。
安倍長期政権をもたらした「メディアの変質・劣化」の前提、より本質的な条件として、社会そのものの変質・劣化がある。それによって、報道人が権力批判言説の生産に対する多数の支持獲得の確信を失い、徒労感、孤立感への恐怖から内部崩壊していったとすれば、それこそが、安倍政権の長期化を可能にした本当の主役として分析の俎上に載せられなければならない。
3.11という「平和と繁栄」の終わりを象徴する出来事の意味を全力で否認することこそ、2011年以降官民挙げてこの国と国民の多くが取り組んできたことにほかならず、その頂点が2020東京五輪である。この「否認」が、3.11以降の国民的な精神モードであったとすれば、安倍政権は国民の期待に良く応えたといえる。実に安倍政権とは、3.11が国民に与えた精神的衝撃に対する反動形成であった。新型コロナ危機においても、本質的に同じものがこの国の中枢に居座り続けている。
今日の統治の崩壊は、「戦後の国体」の崩壊過程を示している。今や「戦後」の長さは76年となり、明治維新から敗戦までの長さ77年間とほぼ等しくなった。戦前の天皇制国家の矛盾・限界が大東亜戦争の強行へと帰結し破滅に至ったプロセスを反復するかたちで、「戦後の国体」は不正・無能・腐敗の憲政史上最低の政権が国家と社会の根幹を腐らせながら長期持続することにより、破滅へと向かっているのである。
「安倍一強体制=2012年体制」は、安倍抜きでも、安倍の影響力がゼロになっても維持されうる。その理由として「野党の頼りなさ」「小選挙区制による党中央への権力集中」が語られてきたが、いずれも表層をなぞっているに過ぎない。日本は言論の自由(政権の批判)や選挙によって、合法的に権力批判や政権交代が可能な国であることを考慮すれば、帰責されるべきは結局のところ国民である。逆に言えば、安倍は日本国民の感情・願望なりの精神態度にマッチした存在として君臨してきたからこそ、長期政権を維持することができた。
長期腐敗政権に支持を与えてきた国民精神には、巨大な闇がある。それは戦前天皇制から引き継がれた臣民メンタリティに内在する奴隷根性である。それは自由への希求に対する根源的な否定の上にあるような主体性である。この主体は常に主人を求めるが、それは責任ある決断に基づく服従ではないから、主人が没落すれば容易に見捨てる。さらにこうした精神態度を拒否する自由人を、その存在が奴隷に対する告発になるので、嫌悪し抑圧する。つまり安倍のキャラクターは、奴隷が甘え依存する格好の対象として現れたと言える。
「平和と繁栄」の幻影から抜け出せない中高年世代が安倍=菅体制を支持するのは理解できるが、「平和と繁栄」を知らない若年層の方が安倍=菅体制に対する支持率が高いのはなぜか。この現象は「若年層の保守化」「若年層の野党嫌い」などと呼ばれ、盛んに分析が加えられている。私見では、この現象の最大の要因は「社会からの逃走」であり、「社会の蒸発」である。
「戦後の国体」が崩壊過程に入って以降(1990年代以降)劣化する一方の社会を認識することは苦痛であり、その苦痛が一定の水準を超えた時「社会」の存在は否認され、究極の社会的無関心をもたらす。それはフロムの「自由からの逃走」の現代版としての「社会からの逃走」である。この傾向が濃縮された若年世代において「体制」に対する高い支持率をもたらす。
平成末期から令和にかけての日本社会を特徴づけたものは反知性主義であった。そうした事態の発生を現代社会の構造的状況のうちに根拠づける。一つには、ポストフォーディズムとかネオリベラリズムと呼ばれる、1980年代あたりから世界的に顕在化した資本主義の新段階において、反知性主義の風潮は民主制の基本的モードとならざるを得ないという事情、言わば新しい階級政治の状況である。もう一つには、制度的学問がそれに棹差している「人間の死滅」という状況が挙げられる。
万人が同等の権利を持つ、従って同等の発言権を持つという前提に立つ近代民主制においては、現実に存在する「知性の不平等」とそれに関連する「現実的不平等」は、度し難い不正として常に現れ、不満の種とならざるを得なくなる。そこに現れうるのは、ルサンチマンの情念が猛威を振るう世界にほかならない。
客観的事実に促されて他者の知的優位を自分が認めざるを得なくなったとき、それでもなお「平等」を維持するためには、「知的な事柄全般が本当は役に立たない余計なものに過ぎない」という発想が出てくる。これはまさに、反知性主義のテーゼである。現代日本の反知性主義においては、権力者が大衆の反知性主義をみずからの権力基盤として利用するという愚民化政策的次元を超えて、反知性主義のエートスが支配層自体にまで浸透していることが、その特徴の一つに数えられる。
反知性主義の活性化は第一に、資本主義のネオリベラリズム化、あるいはポストフォーディズム化による。これによって、総中流社会状況が崩壊し新しい階級社会が出現する中で、反知性主義が社会の潜在的主調低音から基本モードへと転化する可能性が生まれる。このプロセスは均質な総中流社会が成立した後崩壊する日本で極めて明白に観察しうる。中流階級が没落するネオリベ・デモクラシー体制の基本エートスは、深いシニシズムである。
ポスト啓蒙主義時代の主体(ネオ主体)は、「幼児的万能感の喪失」や「享楽の断念」といった「否定的なもの」を「否認」する。そして諸学の領域において、啓蒙主義時代の近代的人間像に代わり、この「ネオ主体」が学の前提に、しばしばその自覚を欠いたまま導入されている。それはエピステーメー(知の枠組み)の大掛かりな変化を意味している。
明治レジームが発明した国体とは、「万世一系の天皇を中心とする国家体制」、つまり日本国は天皇を頂点に頂く「家族」のような共同体で、大いなる父たる天皇は臣民=国民を「赤子」として愛しているのであって、支配しているのではないとされた。しかし国家はあくまで支配の機構であるのにもかかわらず、支配の事実を否認する支配であるところに、国体観念の際立った特徴があった。
終戦後、アメリカは天皇制存続を通して日本を間接支配するプランを実行し、昭和天皇はこれを積極的に受け入れることで皇統断絶の危機を乗り切った。かくして戦後日本の国家支配層には親米路線が共有され、復興、高度成長、経済大国という「平和と繁栄」の物語を生み出した。そしてその代償として、「思いやり予算」「トモダチ作戦」といった用語にその特殊性が鮮明な、日本の奇妙な対米従属を根幹とする「戦後の国体」が存続することになった。それは「アメリカから愛される日本」という幻想によって、被支配と従属の事実を否認するものであるという点において、戦前の天皇制の統治原理と瓜二つなのである。
戦争末期、国体護持を至上命令としたために戦争は長引き、犠牲者が増え続けたのと同様に、今日、親米保守支配層は、対米従属体制の存続のために、日本国民の有形無形の富をその最後の一片に至るまで売り飛ばし、国民の統合を破壊し尽くそうとしている。辺野古新基地建設問題は、アメリカが事実上の天皇として機能する「戦後の国体」の護持かそれとも決別かという問題の最も先鋭な現れである。
国を破滅させた責を本来問われるべき旧ファシスト勢力は、戦後、親米保守派へと転身して支配者の座に戻り、現在でもその末裔が権力の中枢を掌握して「戦後の国体」を護持し続けている。この勢力にとって、原爆投下は「天祐」であった。それによってアメリカの日本独占支配が可能になり、かれらの首がつながり、復権を果たすことができたのである。その意味で、原爆投下は「戦後の国体」の形成の原点に位置している。
PR会社のエデルマン・ジャパンの調査(2020年5月)によると、11ヵ国(日本、米、中国、印、サウジ、英、カナダ、独、韓国、仏、メキシコ)のうち、日本だけで政府への信頼度が低下した。また信頼度そのものは40%で、11ヵ国中最下位である。
Kekst CNC社の世論調査(2020年7月)によると、米、仏、独、英、スウェーデン、日本の6ヵ国の元首のうち、コロナ対策について最も低い評価を受けたのが安倍であった。最も高い評価を受けたのが独のメルケル(+42)で、ビリ2は米のトランプ(-21)、日本の安倍はトランプを10ポイント以上下回る断トツの最下位に沈んだ(-34)。
平時においても、同種の世論調査が示すデータは、一般に日本人は政府や政権をあまり信頼していないことを物語っていた。だから「一般に日本人は国家権力に対して不満を持っており懐疑的に見ている」と結論したくなるだろうが、実際は異なる。世論調査と投票行動から推測する限り、標準的日本人は、「政府も政権もダメだ」と思っているにもかかわらず、どういうわけか選挙になると正反対の投票行動を示す。
世論調査の数字の乱高下は、その時々の目の前の出来事に対する無自覚な「主権者」の直接的な反応としての気分を示しているだけである。こうした「主権者」の許で、まともなデモクラシーなど実現するはずがない。またこのような「主権者」に政権支持や支持政党を問う世論も、本当は意味がない。政権の支持/不支持の根拠を自らに問う内省がない限り、主権者など存在しようがない。存在するのは、その時々のスペクタクルによって振り回される、換言すれば、広告屋と組んだ権力者がいとも簡単に操作できる群衆がいるだけだ。
政府不信と主権者の無自覚は相補的なものである。私たちが主権者でないなら、私達には政府の無能に対する責任はない。逆に、政府は常に無能なので、私達に責任を持たせようとはしない。ここで言う責任とは、自分の人生・生活・生命に対する責任である。自分の人生を生きようとしないこと、自己からの逃避、一種の究極の自己喪失が主体に生じているのではないか。
他方で、日本人の強固な政治不信、国家不信は、無意識的な歴史的記憶によって支えられているのだと思う。戦争、満州撤退、水俣病、福島原発事故等々、土壇場において、この国の権力は虐げられた者を救おうとしないし、自らの過ちを進んで認めることは決してなかった。そのような政府しか私たちが持っていないこと、持たなかったことの責は、誰にあるのか?どこを探しても見つかるはずがない。
内政外政ともに数々の困難が立ちはだかる今、私達に欠けているのは、それらを乗り越える知恵なのではなく、それらを自らに引き受けようとする精神態度である。真の困難は、政治制度の出来不出来云々以前に、主権者たろうとする気概がないことにある。主権者たることとは、政治的権利を与えられることによって可能になるのではない。それは、人間が自己の運命を自らの掌中に握ろうとする決意と努力の中にしかない。