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 吉田健正著「沖縄の海兵隊はグアムへ行く」を読んだ。本書は、沖縄から9000人近くの海兵隊員をグアムに移すという米国のグアム基地建設計画のポイントを紹介したものである。

2006年5月、日米両政府は前年10月の合意文書「日米同盟:未来のための再編と変革」にもとづく「在日米軍再編実施のためのロードマップ」合意を発表した。そこでは、沖縄の米海兵隊の指揮部隊・司令部要員8000名とその家族9000名がグアムに移転することが確約された。その2カ月後には米太平洋軍による「グアム統合軍事開発計画」が発表された。米国領グアムをアジア太平洋の一大軍事拠点として拡張・整備するという計画である。

さらに2年後の08年4月、この計画は米海軍省により「グアム統合マスタープラン」として確定され、翌09年11月、このマスタープランを実行するための「環境影響評価案」(環境アセスメント案)が公表された。その内容はインターネットで公表されているのに、マスメディアで全く報道されず、日本政府も全く触れていない。

普天間基地移設問題にかかわって、この米軍グアム統合計画は決定的に重要な意味を持つにもかかわらず、この重要な事実が日本では伝えられていない。なお、防衛省(ホームページ)によると、普天間基地の県内移設未実施にもかかわらず、海兵隊のグアム移転計画はすでに実施の段階に入っている。

米海軍施設本部の統合グアム計画室が作成した「環境影響評価案」は、「要旨」と1~9巻の全10冊からなる大部なものである。計画室はその印刷物をグアム島内の数か所の図書館に置いて公開するとともに、ウェブサイトで公表した。「評価案」には、米軍が実施しようとしている最新のグアム基地建設・整備計画が示されている。

「評価案」の正式名称は、「グアム・北マリアナ諸島軍事移転(沖縄からの海兵隊移転、訪問空母の接岸埠頭、陸軍ミサイル防衛任務隊)に関する環境影響評価・海外環境評価案」という。この長いタイトルが示すように、沖縄からグアムに移転する海兵隊のためだけでなく、同時期にグアムで予定されている原子力空母寄港用の埠頭建設、グアムに駐留する予定の陸軍ミサイル防衛任務隊を受け入れるための施設整備を実現するための環境アセスメント報告書である。また、グアムだけでなく、その北に位置する北マリアナ諸島のテニアンも対象になっている。

沖縄からの海兵隊と家族の移転により、グアムでは道路、電気、水道などのインフラや廃棄物処理場や汚水処理場も整備されることになる。2006年のロードマップ合意で、日本政府は「施設及びインフラの整備費算定額102.7億ドルのうち、28億ドルの直接的な財政支援を含め、60.9億ドル(2008米会計年度の価格)を提供する」ことになっている。「施設」とは司令部庁舎、教場(教練場を兼ねた教室)、隊舎、学校などの生活関連施設、家族住宅、「インフラ」とは電力、上下水道、廃棄物処理場を指す。

日本政府が資金負担するプロジェクト(施工は米国の業者)のうち、2010年1月の時点で、フィネガヤン地区に建設される消防署と下士官用隊舎の設計、アプラ地区の港湾運用部隊司令部庁舎設計についてはすでに契約が完了し、フィネガヤン地区、アンダーセン空軍基地北部地区およびアプラ地区の基盤整備事業については、米海軍施設エンジニアリング本部が入札公告を実施中だという。「環境社会配慮」「金融スキームの検討」「家族住宅民活事業」「インフラ民活事業」に関する「アドバイザリー業務」については、2009年10月末から防衛省が入札を公告している。

 布施裕仁著「日米同盟・最後のリスク」を読んだ。本書は、日米安保条約は日本を守るために存在しているという旧来の「安保神話」は、世界史レベルの大変動期である「米中対立」の時代にはもはや通用しないことを、日米同盟の歴史的変遷並びに現時点での重大なリスクを通じて明らかにし、米中戦争に巻き込まれる最大のリスクを乗り越える方策を提言している。

内閣府の世論調査では約八割が、日米安保条約は日本を守ってきたし、今後も日本を守るために必要だと考えているが、アメリカ政府の公文書には「在日米軍は日本を守るために駐留しているのではない」と、はっきり書いた文書がいくつもある。旧安保条約締結以降、結果的に一度も外国からの武力攻撃を受けなかったという「過去の実績」は、現在の安全保障環境においてはまったく通用しない状況に急変しつつある。

日本の安全保障をめぐるリスクの一つは「敵基地攻撃能力の保有」であり、もう一つは米軍の新型中距離ミサイルの日本への配備計画である。この二つの問題は一つのものととらえるべきで、日米が一体となって敵基地を攻撃するための新型中距離ミサイルを2023年以降に日本全土に配備する計画である。

今後、アメリカおよびその同盟国と中国・ロシアの対立が一層激しくなることが予想される。米露対立の主戦場は欧州だが、米中対立の主戦場は東アジアであり、米中戦争になれば新型中距離ミサイルを配備した日本に中国のミサイルが撃ち込まれ、日本の国土が「戦場」となるリスクが格段に高まる。最悪の場合、核ミサイルの打ち合いにまでエスカレートする危険性すらある。

この最悪のシナリオを回避するためには、日米同盟のリスク・コントロールに努力しなければならない。日本政府は米軍の中距離ミサイル配備によって「抑止力が高まる」「米中にミサイル戦力のギャップがあるほうが危険だ」と国民に説明するだろう。しかし日米同盟には「抑止力」というベネフィット(便益)があるのと同時に、様々なリスクも存在する。最大のリスクは、日本が武力攻撃を受けていないのに、アメリカの戦争に日本が巻き込まれ、最悪の場合、核戦争にすらつながりかねない最大のリスクとなっている。

基地問題の第一人者である沖縄選出の参議院議員・伊波洋一氏は、南西諸島への自衛隊配備は島を守るものではなく、逆に島を戦争に巻き込むものだと強く警鐘を鳴らしている。この配備はアメリカの対中軍事戦略に基づいて進められており、アメリカが主眼としているのは「日本防衛」ではなく「台湾防衛」だという。

その根拠の一つは、米海軍大学のトシ・ヨシハラ教授とジェームズ・R・ホームズ教授が2012年に発表した「アメリカ流非対称戦争」と題する有名な論文である。この論文には、南西諸島の島々に日米がミサイルを配備して中国軍の太平洋への進出をブロックすることができれば、「台湾有事」でアメリカは有利に戦いを進められる、との見解が述べられている。日本政府が南西諸島への自衛隊配備の最大の理由とする「尖閣」には、一言も触れていない。

アメリカの戦略は、日本ではなく台湾を始めとするアメリカの権益を守るために日本を戦場にするというもの。アメリカの計画は、日本が中国のミサイルで攻撃されることを前提に、ミサイル部隊など一部の部隊を残して空軍や海軍の主力部隊はいったんグアムやハワイなどに下げるというもの。一方、 日本人は逃げられず、逃げ場のない離島は戦争になったら住民は全滅する。

米インド太平洋軍が2020年3月に米議会へ提出した戦力強化計画に関する報告書には、独自の地対艦ミサイルを第一列島線上の島々に配備することがはっきり書かれている。これは島を防衛するのが目的ではなく、洋上の米軍の艦船や航空機を防衛するのが主な目的とされている。

ロシアとのINF条約を廃棄したアメリカは、今後日本を含むアジアに、これまで禁じられていた「核も搭載可能な新型中距離ミサイル」を、大量に配備する計画を立てている。射程500~5500キロの中距離ミサイルを日本全土に配備すれば中国本土全体への攻撃が可能となる。そうなれば当然中国はそのミサイル基地を攻撃目標とする。「標的」となる場所が多ければ多いほど、中国に軍事的なコストを課すとともに、味方のミサイルが残存する比率も高くなるというのがアメリカの「戦略」である。

アメリカにとって最も重要なのは、インド太平洋地域におけるアメリカの国益と覇権を守ることであり、中距離ミサイルの日本配備もそのための一つの手段に過ぎない。アメリカにとっては、最終的に中国に勝利することが重要であって、日本が中国から攻撃を受けることはそれほど大きなリスクとは考えないだろう。しかし、日本にとっては、国土が攻撃(最悪の場合は核攻撃)を受けることは国民の生命に関わる大きなリスクだ。しかもそのリスクを負う地域は、日本全土に及ぶことが想定される。

日本人に深く浸透している「日米同盟は日本防衛のためにある」という、事実とは異なる「神話」が「いざという時はアメリカが守ってくれる」という幻想を生み出し、日米同盟が内包する重大なリスクに目をつぶる結果となっているのである。日米同盟のリスクを正確に理解するためにも、「安保神話」から脱却する必要がある。そのために、本書では日米同盟が日本防衛のために存在しているのではないことを証明するファクトを、日米同盟の歴史を年代ごとに示している。

題目を挙げれば1960年代の三ツ矢研究、1970年代の日米共同作戦計画、1980年代のシーレーン防衛、1990~2010年代の日米軍事一体化、2010年代~の米中対立と核ミサイル戦争である。内容提示は省略する。

元防衛庁官房長の柳澤脇二氏は、米中戦争に日本が巻き込まれないためには、在日米軍基地の使用を拒否し、自衛隊による後方支援を一切しないという選択をする以外にないが、それは「究極の選択」だという。

つまり、「日本がアメリカの軍事行動に一切協力しないとなったら、日米の信頼関係は崩壊し、日米同盟の終焉ということになる。日本に中国のミサイルが飛んでくるのと、日米同盟を維持するのと、どっちが大事かというぎりぎりの選択をしないといけなくなる」。そのような状況をつくらないためにも、「米中が間違っても軍事衝突を起こさないよう、仲介外交をするほかないのだろう」と言う。身近に存在するASEANが「仲介外交」の手本になる。

いまや安全保障の主流は、軍事同盟から地域の国すべてが参加する「地域安全保障機構」にシフトしている。2011年には「アメリカから自立した地域統合」を目的とした「ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体(CELAC)」がキューバを含む中南米のすべての国が参加して発足した。

日本とアジアの平和な未来を築いていくための五つの提言をする。
①米中の衝突を防ぎ、覇権なきアジアを目指す仲介外交を
ASEANとも連携して、「覇権争い」を激化させる米中両国に対して自制を求め、対話と協力を促していく。

②尖閣での衝突回避を
2014年11月に両国政府が確認したように、日中間に「異なる見解」が存在している事実を認め、対話と協議を通じて情勢の悪化と不測の事態を回避するという合意を基礎に、粘り強く対話と協議を続けていくことが重要である。

③安全保障対話のテーブルを
北東アジアにはASEANのような地域の安全保障について多国間で話し合う枠組みが存在しない。ただ、北朝鮮の核問題を話し合うために、アメリカ、北朝鮮、中国、日本、韓国、ロシアが「六か国会議」という枠組みを設けたことがある。こうした安全保障対話のテーブルを定期的に開くよう、日本が提唱するのも一つのアイデアだ。

④核・ミサイルの軍備管理の枠組みを
最善のシナリオは、米中露の三カ国で新しいINF(中距離核戦力)全廃条約を結ぶことだが、これは容易ではない。なぜなら、全般的な軍事力でまだアメリカに劣る中国が優位に立っている数少ない分野のひとつが、中距離ミサイルだから。

米中露の新たな核軍縮・軍備管理の枠組みを実現するには、米露の大幅な核軍縮が必要だ。それと共に、核兵器使用の可能性を低減する努力のひとつとして、核兵器の先制不使用政策の採用が重要である。中国はすでにこの政策を採用しているので、アメリカも採用すれば、核兵器をめぐる米中の緊張は緩和されることになる。オバマ政権時、日本がアメリカの核兵器の先制不使用政策に反対したことを反省し、アメリカ政府が同政策を採用するよう背中を押すべきだ。

⑤北東アジア非核兵器地帯の提唱を
中長期的には、ASEANがすでに実現している「非核兵器地帯条約」を北東アジアにもつくるというアイデアもある。具体的には、日本と韓国と北朝鮮の三カ国が「非核兵器地帯」となり、各国領域内での核兵器の開発、保有、実験、配備などを禁止する。さらに核保有国(アメリカ、中国、ロシア)に対しても「非核兵器地帯」内での核兵器の使用と威嚇を禁止する。目指すのは、米中の協調を軸に、インド太平洋地域のすべての国々が対等に協力し合う地域安全保障機構の実現である。

 エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」を読んだ。本書は、現代の文化的社会的危機に対して決定的な意味を持つ一つの側面、即ち近代人にとっての自由の意味について、心理学的考察を加えたものである。

近代人は、個人に安定を与えると同時に束縛していた前近代的社会の絆からは自由になったが、個人的自我の実現、即ち個人の知的な、感情的な、また感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は、まだ獲得していない。自由は近代人に独立と合理性を与えたが、一方個人を孤独に陥れ、そのため個人を不安な無力なものにした。

この孤独は耐え難いものである。彼は自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性に基づいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる。本書は診断・分析であるが我々の行為の進路に一つの方向を与えている。なぜなら、全体主義がなぜ自由から逃避しようとするのかを理解することが、全体主義的な力を征服しようとするすべての行為の前提であるから。

現代における自由の問題は、単に巨大な機械主義社会や政治的全体主義の圧力などによって、個人の自由が脅かされているということだけではなくて、一方では人々が求めてやまないはずの、価値としての自由が、他方では、人々がそこから逃れ出たいと望むような呪詛となりうるところにある。

歴史を動かす力は、社会経済的条件、イデオロギー、社会的性格である。有力な要因としてマルクスは社会経済的なものを、ウェーバーはイデオロギー的なものを、フロイトは人間の奥深い根源的な衝動を重視した。フロムは社会経済的要因とイデオロギーとならんで、歴史において演ずる社会的性格の役割に注意を喚起した。

ルネッサンスおよび宗教改革以来、人間を従来の束縛から解放してきた自由の原理と、人間に孤独感と無力感を与える否定的な側面とが絡み合っている。その結果人間は、自由の重荷に耐えかねて、積極的にナチズムのような全体主義イデオロギーを希求することさえ、あえてするようになる。それゆえ自由が重荷となるようなところでは、それがデモクラシー社会においてであっても、ナチズムやファッシズムの心理的な温床は存在する。

 白井聡著「主権者のいない国」を読んだ。本書は、「統治の崩壊」というべき段階にまで陥った日本の政治、そしてそれを必然化した日本社会についての分析・考察をまとめたもの。

第一章には安倍・菅政権に関する論考を集めた。2012年以来継続してきた自公連立長期政権は、日本の「戦後」という時代がその土台喪失にもかかわらず無理やり維持されてきた、その矛盾の爆発的な露呈の表現であり産物である。その矛盾の本質を提示し、矛盾がいよいよその最終的な自己破壊の過程に入り込んでいる様子を分析する。

第二章は、新自由主義社会批判を主題としている。悲惨な政治を支えてきた基盤は、結局、日本社会自体、日本人自身の悲惨さである。社会が劣化してしまったのは、新自由主義が政策を支える単なるイデオロギーではなく、一種の文明の原理と化し、人々の魂の中に入り込んでいるからである。その諸相を、新自由主義の同伴者たる反知性主義に対する分析とともに提示する。

第三章は、現代日本の閉塞を形づくるもう一つの文脈としての特殊日本的事情=近代天皇制を分析した。平成から令和への改元の過程で際立っていたのは、安倍政権による改元・元号の「私物化」だった。世論は、天皇の意思による生前退位の意味を深く受け止めることもなしに、改元をやり過ごした。そこにも社会の劣化の一端が現れているが、それは明治日本が創作した近代天皇制の一帰結にほかならない。

第四章では沖縄と日韓・日朝関係を取り上げる。戦後日本の「平和と繁栄」のバックヤードが沖縄と朝鮮戦争(およびその帰結としての南北分断の固定化)であった。従って、戦後レジームの破綻・崩壊は、本土と沖縄の関係、日韓・日朝関係の不安定化や緊迫において劇的に現れる。その緊迫の諸相を考察することは、戦後の本質に対する理解に資するところ大である。

第五章は、今日の苦境を抜け出し、より良き未来への希望を懐けるためのキーワードとなるのは「歴史」と「記憶」であることを提示する。現在の権力は、最悪の形で記憶を利用している。「東京五輪2020」と「大阪万博2025」というのがそれだ。戦後の終わり、戦後レジームの崩壊的解体の混迷に対する処方箋として戦後の発展の栄光の記憶を持ち出すことにより、さらなる「否認」の泥沼のなかで人々を眠り込ませようとする一方で、その内実はイベントにかこつけた公金の分捕り合戦に過ぎない。私たちの想像力を豊かにするような歴史と記憶の想起はいかにして可能か。素材を求めて試みた論考を提示する。

安倍政権は長期の失政を糊塗し、成功の外観を装うために嘘を重ね、「公正」や「正義」といった社会の健全性を保つために不可欠な理念をズタズタにした。そして、国土や国民全体を私物化し、法治国家の根幹を揺るがせ、社会全体を蝕んできた。

安倍政権を支えてきた制度・機関の筆頭はマスメディアである。メディア機関の経営トップが権力と癒着・忖度し、その下で働く者たちの層へトリクルダウンする。特に政治部は、権力と監視者との間にあるべき緊張感を完全に失い、政府の公式見解の伝動ベルトへと化してきた。

政権末期の健康不安をめぐる演出は、「民意によって追い込まれての解散」という現実を誤魔化し否認するための手の込んだ工作に他ならない。この工作は、安倍個人の自己保身のみならず、民衆の力を否認し、民衆に自らを無力だと感じ続けさせる罪深いものだ。安倍政権は、民衆が自らの力を自覚してしまうことを極度に恐れていた。

安倍長期政権をもたらした「メディアの変質・劣化」の前提、より本質的な条件として、社会そのものの変質・劣化がある。それによって、報道人が権力批判言説の生産に対する多数の支持獲得の確信を失い、徒労感、孤立感への恐怖から内部崩壊していったとすれば、それこそが、安倍政権の長期化を可能にした本当の主役として分析の俎上に載せられなければならない。

3.11という「平和と繁栄」の終わりを象徴する出来事の意味を全力で否認することこそ、2011年以降官民挙げてこの国と国民の多くが取り組んできたことにほかならず、その頂点が2020東京五輪である。この「否認」が、3.11以降の国民的な精神モードであったとすれば、安倍政権は国民の期待に良く応えたといえる。実に安倍政権とは、3.11が国民に与えた精神的衝撃に対する反動形成であった。新型コロナ危機においても、本質的に同じものがこの国の中枢に居座り続けている。

今日の統治の崩壊は、「戦後の国体」の崩壊過程を示している。今や「戦後」の長さは76年となり、明治維新から敗戦までの長さ77年間とほぼ等しくなった。戦前の天皇制国家の矛盾・限界が大東亜戦争の強行へと帰結し破滅に至ったプロセスを反復するかたちで、「戦後の国体」は不正・無能・腐敗の憲政史上最低の政権が国家と社会の根幹を腐らせながら長期持続することにより、破滅へと向かっているのである。

「安倍一強体制=2012年体制」は、安倍抜きでも、安倍の影響力がゼロになっても維持されうる。その理由として「野党の頼りなさ」「小選挙区制による党中央への権力集中」が語られてきたが、いずれも表層をなぞっているに過ぎない。日本は言論の自由(政権の批判)や選挙によって、合法的に権力批判や政権交代が可能な国であることを考慮すれば、帰責されるべきは結局のところ国民である。逆に言えば、安倍は日本国民の感情・願望なりの精神態度にマッチした存在として君臨してきたからこそ、長期政権を維持することができた。

長期腐敗政権に支持を与えてきた国民精神には、巨大な闇がある。それは戦前天皇制から引き継がれた臣民メンタリティに内在する奴隷根性である。それは自由への希求に対する根源的な否定の上にあるような主体性である。この主体は常に主人を求めるが、それは責任ある決断に基づく服従ではないから、主人が没落すれば容易に見捨てる。さらにこうした精神態度を拒否する自由人を、その存在が奴隷に対する告発になるので、嫌悪し抑圧する。つまり安倍のキャラクターは、奴隷が甘え依存する格好の対象として現れたと言える。

「平和と繁栄」の幻影から抜け出せない中高年世代が安倍=菅体制を支持するのは理解できるが、「平和と繁栄」を知らない若年層の方が安倍=菅体制に対する支持率が高いのはなぜか。この現象は「若年層の保守化」「若年層の野党嫌い」などと呼ばれ、盛んに分析が加えられている。私見では、この現象の最大の要因は「社会からの逃走」であり、「社会の蒸発」である。

「戦後の国体」が崩壊過程に入って以降(1990年代以降)劣化する一方の社会を認識することは苦痛であり、その苦痛が一定の水準を超えた時「社会」の存在は否認され、究極の社会的無関心をもたらす。それはフロムの「自由からの逃走」の現代版としての「社会からの逃走」である。この傾向が濃縮された若年世代において「体制」に対する高い支持率をもたらす。

平成末期から令和にかけての日本社会を特徴づけたものは反知性主義であった。そうした事態の発生を現代社会の構造的状況のうちに根拠づける。一つには、ポストフォーディズムとかネオリベラリズムと呼ばれる、1980年代あたりから世界的に顕在化した資本主義の新段階において、反知性主義の風潮は民主制の基本的モードとならざるを得ないという事情、言わば新しい階級政治の状況である。もう一つには、制度的学問がそれに棹差している「人間の死滅」という状況が挙げられる。

万人が同等の権利を持つ、従って同等の発言権を持つという前提に立つ近代民主制においては、現実に存在する「知性の不平等」とそれに関連する「現実的不平等」は、度し難い不正として常に現れ、不満の種とならざるを得なくなる。そこに現れうるのは、ルサンチマンの情念が猛威を振るう世界にほかならない。

客観的事実に促されて他者の知的優位を自分が認めざるを得なくなったとき、それでもなお「平等」を維持するためには、「知的な事柄全般が本当は役に立たない余計なものに過ぎない」という発想が出てくる。これはまさに、反知性主義のテーゼである。現代日本の反知性主義においては、権力者が大衆の反知性主義をみずからの権力基盤として利用するという愚民化政策的次元を超えて、反知性主義のエートスが支配層自体にまで浸透していることが、その特徴の一つに数えられる。

反知性主義の活性化は第一に、資本主義のネオリベラリズム化、あるいはポストフォーディズム化による。これによって、総中流社会状況が崩壊し新しい階級社会が出現する中で、反知性主義が社会の潜在的主調低音から基本モードへと転化する可能性が生まれる。このプロセスは均質な総中流社会が成立した後崩壊する日本で極めて明白に観察しうる。中流階級が没落するネオリベ・デモクラシー体制の基本エートスは、深いシニシズムである。

ポスト啓蒙主義時代の主体(ネオ主体)は、「幼児的万能感の喪失」や「享楽の断念」といった「否定的なもの」を「否認」する。そして諸学の領域において、啓蒙主義時代の近代的人間像に代わり、この「ネオ主体」が学の前提に、しばしばその自覚を欠いたまま導入されている。それはエピステーメー(知の枠組み)の大掛かりな変化を意味している。

明治レジームが発明した国体とは、「万世一系の天皇を中心とする国家体制」、つまり日本国は天皇を頂点に頂く「家族」のような共同体で、大いなる父たる天皇は臣民=国民を「赤子」として愛しているのであって、支配しているのではないとされた。しかし国家はあくまで支配の機構であるのにもかかわらず、支配の事実を否認する支配であるところに、国体観念の際立った特徴があった。

終戦後、アメリカは天皇制存続を通して日本を間接支配するプランを実行し、昭和天皇はこれを積極的に受け入れることで皇統断絶の危機を乗り切った。かくして戦後日本の国家支配層には親米路線が共有され、復興、高度成長、経済大国という「平和と繁栄」の物語を生み出した。そしてその代償として、「思いやり予算」「トモダチ作戦」といった用語にその特殊性が鮮明な、日本の奇妙な対米従属を根幹とする「戦後の国体」が存続することになった。それは「アメリカから愛される日本」という幻想によって、被支配と従属の事実を否認するものであるという点において、戦前の天皇制の統治原理と瓜二つなのである。

戦争末期、国体護持を至上命令としたために戦争は長引き、犠牲者が増え続けたのと同様に、今日、親米保守支配層は、対米従属体制の存続のために、日本国民の有形無形の富をその最後の一片に至るまで売り飛ばし、国民の統合を破壊し尽くそうとしている。辺野古新基地建設問題は、アメリカが事実上の天皇として機能する「戦後の国体」の護持かそれとも決別かという問題の最も先鋭な現れである。

国を破滅させた責を本来問われるべき旧ファシスト勢力は、戦後、親米保守派へと転身して支配者の座に戻り、現在でもその末裔が権力の中枢を掌握して「戦後の国体」を護持し続けている。この勢力にとって、原爆投下は「天祐」であった。それによってアメリカの日本独占支配が可能になり、かれらの首がつながり、復権を果たすことができたのである。その意味で、原爆投下は「戦後の国体」の形成の原点に位置している。

PR会社のエデルマン・ジャパンの調査(2020年5月)によると、11ヵ国(日本、米、中国、印、サウジ、英、カナダ、独、韓国、仏、メキシコ)のうち、日本だけで政府への信頼度が低下した。また信頼度そのものは40%で、11ヵ国中最下位である。
Kekst CNC社の世論調査(2020年7月)によると、米、仏、独、英、スウェーデン、日本の6ヵ国の元首のうち、コロナ対策について最も低い評価を受けたのが安倍であった。最も高い評価を受けたのが独のメルケル(+42)で、ビリ2は米のトランプ(-21)、日本の安倍はトランプを10ポイント以上下回る断トツの最下位に沈んだ(-34)。

平時においても、同種の世論調査が示すデータは、一般に日本人は政府や政権をあまり信頼していないことを物語っていた。だから「一般に日本人は国家権力に対して不満を持っており懐疑的に見ている」と結論したくなるだろうが、実際は異なる。世論調査と投票行動から推測する限り、標準的日本人は、「政府も政権もダメだ」と思っているにもかかわらず、どういうわけか選挙になると正反対の投票行動を示す。

世論調査の数字の乱高下は、その時々の目の前の出来事に対する無自覚な「主権者」の直接的な反応としての気分を示しているだけである。こうした「主権者」の許で、まともなデモクラシーなど実現するはずがない。またこのような「主権者」に政権支持や支持政党を問う世論も、本当は意味がない。政権の支持/不支持の根拠を自らに問う内省がない限り、主権者など存在しようがない。存在するのは、その時々のスペクタクルによって振り回される、換言すれば、広告屋と組んだ権力者がいとも簡単に操作できる群衆がいるだけだ。

政府不信と主権者の無自覚は相補的なものである。私たちが主権者でないなら、私達には政府の無能に対する責任はない。逆に、政府は常に無能なので、私達に責任を持たせようとはしない。ここで言う責任とは、自分の人生・生活・生命に対する責任である。自分の人生を生きようとしないこと、自己からの逃避、一種の究極の自己喪失が主体に生じているのではないか。

他方で、日本人の強固な政治不信、国家不信は、無意識的な歴史的記憶によって支えられているのだと思う。戦争、満州撤退、水俣病、福島原発事故等々、土壇場において、この国の権力は虐げられた者を救おうとしないし、自らの過ちを進んで認めることは決してなかった。そのような政府しか私たちが持っていないこと、持たなかったことの責は、誰にあるのか?どこを探しても見つかるはずがない。

内政外政ともに数々の困難が立ちはだかる今、私達に欠けているのは、それらを乗り越える知恵なのではなく、それらを自らに引き受けようとする精神態度である。真の困難は、政治制度の出来不出来云々以前に、主権者たろうとする気概がないことにある。主権者たることとは、政治的権利を与えられることによって可能になるのではない。それは、人間が自己の運命を自らの掌中に握ろうとする決意と努力の中にしかない。

 矢部宏治著「本土の人間は知らないが沖縄の人はみんな知っていること」を読んだ。本書は沖縄・米軍基地観光ガイドの形式をとって、在日米軍基地の専用施設の74%が、国土面積のわずか0.6%に過ぎない「沖縄県」に集中している実態を「目に見える形」でまとめるとともに、並行して国の根幹を歪ませている米軍基地の歴史的経緯を究明したものである。

戦後日本の政治体制の大枠は占領中に作られた。その本質は「アメリカが日本を支え、国家機能の代行をしていた」ところにあった。だがそれは「冷戦の間だけだった」。だから、冷戦後、日本は国家機能を喪失し、長きにわたって衰退をつづけているのだ。自民党という政党の一番の機能、存在理由とは、「日米安保体制を守り、運営することだった。

密約は、外務省や防衛省のエリートコースに乗った官僚たちにだけ、紙に書かれたメモとしてひそかに引き継がれている。そして何も知らない政治家が、首相や外務大臣、防衛大臣になったとたんに、官僚のトップから説明を受けびっくりする。密約は超エリート官僚だけの「秘伝」で、権力の源泉となって巨大な人事ヒエラルキーが生まれてしまっている。これが外務省や防衛省の幹部たちが首相の言う通り動けなくなっている最大の原因であろう。長期自民党政権で生まれた構造的問題で、何世代にもわたって続いているため、個人で変えることは不可能。

1979年、筑波大学の進藤栄一教授が、同年4月号の雑誌「世界」に「分割された領土」と題する論文を発表し、1947年、昭和天皇がマッカーサー司令部に対し、沖縄の半永久的な占領を求めるメッセージを側近を通じて伝えていたことを明らかにした。天皇は、沖縄に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借―25年ないし50年、あるいはそれ以上―の擬制(フィクション)に基づくべきであると考えている。(沖縄メッセージ)

1946年誕生した日本国憲法9条の理想(戦争・戦力放棄=人類の究極の夢)は続かず、共産主義勢力の拡大に対応してアメリカ政府は対日占領政策を大きく転換し、日本を「反共の砦」にしようと考えた。これがいわゆる「逆コース」の始まりである。1950年の朝鮮戦争勃発に対応し、マッカーサーは警察予備隊(後の自衛隊)の創設を命じた。占領下の突然の政策転換が、戦後の日本の安全保障論議を複雑にする大きな原因となっている。

関西学院大の豊下楢彦教授によれば、マッカーサーが夢見た「戦力を放棄した理想国家」のなかで、「国体護持」のための安保体制が新しい「国体」となった。つまり、「天皇を米軍が守る」という日米安保体制が、戦後日本の新しい国家権力構造になったということ。だから日本の右翼は親米・属米なのだ。そして自国に駐留している米軍については何も言わないし、言えないのである。本来最も愛国的であり、自主独立を唱えるべき右派勢力が、米軍の駐留を強く支持するというパラドックス。

「戦力放棄」「平和憲法」という理想を掲げながら、世界一の攻撃力を持つ米軍を駐留させ続けた戦後日本の矛盾は、すべて沖縄が軍事植民地となることで成立していたというわけだ。沖縄という同胞を切り捨て、ひたすら経済的繁栄を追い求めたことのツケが、まさに今問われようとしている。

アメリカ陸軍軍事情報部の「心理戦争課」が1942年6月、開戦からわずか半年後に作成した「ジャパン・プラン」という文書に、日本を占領したあとは「天皇を平和のシンボルとして利用する」という方針が書かれていた。さらに「現在の軍部政権が、天皇と皇室を含む日本全体を危険にさらしたことにすること」や「政府と民衆の間に分裂を作り出すため、天皇と軍部を切り離すこと」などが、プロパガンダの目標として設定された。

憲法9条は、成立当初は「国連憲章+沖縄の軍事基地化」と、1951年以降は日米安保条約と、最初からセットで存在しているもので、単独で議論することに意味はない。

ルース・ベネディクトの「菊と刀」は、アメリカの対日政策の一環として、CIAの前身の一つ「戦時情報局」が行った「対日心理戦争」の一部だった。ベネディクトは長期にわたって日本を米国に従属させるためには、日本文化の根底には言葉にできない、非アジア的な天皇中心の「文化パターン」がある、という考えを広めると効果があると結論付けた。日本が心理的にアジアと距離を置けば、決してアジアと共同歩調を取れないだろうし、アメリカに依存し続けるはずだと分析した。

2008年出版のティム・ワイナー著「CIA秘録」によれば、CIAは1950年代から60年代にかけて、自民党に数百万ドル援助しており、そもそも自民党というのは「岸がCIAに金を出してもらって作った政党」なのだ。岸はアメリカからの支援を見返りに、日本の外交政策をアメリカの望むものに変えていくことを約束した。
→<*要するに売国奴ということ。昭和天皇と吉田茂、岸信夫がこの国の形をいびつなものにした昭和の三悪人だ*>。

早稲田大の有馬哲夫によれば、日本テレビもCIAから金をもらって誕生したという。これは共産主義に対抗するためのアメリカの心理戦(情報戦)の一環として行われた。初代社長は読売新聞社主の正力松太郎で、CIAから「PODAM」というコードネーム(暗号名)までもらっていた。

アメリカ国務省は、1972年沖縄返還のすべての交渉過程を分析、検証し、報告書(「沖縄返還―省庁間のケーススタディ」)にまとめている。その結果、沖縄返還交渉は「アメリカ外交史上、まれにみる成功例」だと位置づけられている。その理由として、国防省のアメリカ側担当者だったハルペリン次官補代理は「沖縄だけでなく、日本全体の基地をより大規模に、タダで使えるようになったこと」だと語っている。

沖縄返還の当日に交わされた覚書によって、沖縄の基地のほとんどが「返還前と同じ」条件で使えることが合意されていた。さらに、日米地位協定・第2条4-bの「一時利用」を拡大解釈することで、自衛隊基地を恒常的に利用し、基地の運営経費を下げることにも成功している。

鳩山政権や細川政権のように、安全保障面でアメリカと距離をおこうとする首相が現れた時、いつでもその動きを封じ込むことのできる究極の脅し文句は、「北朝鮮が暴発して核攻撃の可能性が生じた時、両政府間の信頼関係が損なわれていれば、アメリカは核の傘を提供できなくなるが、それでもいいのか(=北朝鮮の核をぶちこまれたいのか)」という内容だと断言できる。

2009年11月、宜野湾市長・伊波洋一は議員会館で講演し、アメリカでは大規模な軍の再編計画が進んでおり、沖縄の海兵隊はほとんどグアムへ行くことが決まっているという事実を明らかにした。ブッシュ大統領時代に始まった「世界規模での米軍再編計画」のなかで、グアムに巨大な軍事基地を作る「統合軍事開発計画」が進んでおり、沖縄の海兵隊はほとんどそこへ行くことになっている。このグアムへの海兵隊の移転によって、日本を含むアジア・太平洋地域の抑止力は強化されることが日米政府間で確認されており、そのため日本は移転費用92億ドルのうち、60億ドルを出すことになっている・・・。

2011年5月にウィキリークスが暴露したアメリカの外交文書によると、鳩山政権の普天間返還交渉のなかで、防衛省と外務省の生えぬき官僚たちがアメリカのキャンベル国務次官補に対し、「(民主党政権の要望には)すぐに柔軟な姿勢を示さない方がいい」(高見沢・防衛政策局長)など、完全にアメリカ側に立った発言を繰り返していたことがわかっている。なぜそんなことが起こるのか。

その理由の一つは、米軍の存在自体が核抑止力と位置付けられているため、いつまでもいてもらわなければ困ると本気で思っているから。もう一つは、米軍の存在が現在の国家権力構造(国体)の基盤であることを、かれらがよくわかっているからだろう。戦後日本の国体[(天皇+米軍)+官僚]は、明治以来の「天皇の官吏」としての官僚たちの行動原理(絶対的権威のもと匿名で権利を行使する)にピタリとはまったわけだ。

昭和天皇亡き後、国家権力構造の中心にあるのは「昭和国体」から天皇を引いた「米軍・官僚共同体」。米軍の権威をバックに官僚が政治家の上に君臨し、しかも絶対に政治的責任を問われることはない。これが平成の新国体。その力の源泉は、彼ら外務官僚と法務官僚が「条約や法律を解釈する権限」を独占していることにある。

日米地位協定は、日本国憲法と日米安保条約という異質な法体系を、現実レベルで「接ぎ木」しているもので、その接点にある「日米合同委員会」は、日々密約を生み出している「密約製造マシーン」である。そしてこの委員会のOBたちが、日本の権力ヒエラルキーの中心に位置している。メンバーは、日本側が外務省北米局長を代表に、代表代理が法務省・防衛省・財務省・農水省・外務省の局長・参事官クラスで計5人。アメリカ側は、在日米軍副司令官を代表に、代表代理が在日米軍の高官(陸・海・空・海兵の副司令官・参謀長クラス)と在日大使館公使で計6人。

委員会の下に35の分科委員会や部会があり、2週間に1度のペースで会合を持っている。議事録と合意文書は作成されるが、それらは原則として公表されない。つまり、日本のエリート官僚と米軍の高官たちが、必ず月2回会って、密約を結んでいるということ。そしてその密約の中のあるものは検察や裁判所へ伝えられ、求刑や判決の結果を左右している。

「密約」というのは官僚の悪事や違法行為ではなく、国際法(=大国の圧力)との関係から生まれる外交上の技術に過ぎない。問題は、外国軍が条約に基づいて数万人規模で駐留し、最高裁がその問題について憲法判断を放棄しているという状況そのものにある。その結果として生じる、自国民の権利より外国軍の権利が優先するという植民地的状況を、なんとかアメリカに対等なふりをしてもらって見えなくしようとしたのが「密約」であり、文章をいじってごまかそうとしたのが「霞ヶ関文学」だということ。

日本国憲法と日米安保条約は表裏一体の関係にあり、現実は、外交と安全保障をカバーし、官僚機構を味方につけた日米安保・法体系(=国際法・法体系)の方が、憲法判断を放棄した日本国憲法・法体系よりも、実は上位なのだということ。それが1960年以降の日本の本当の姿なのである。さらに、我々国民が全く知らない間に、様々な共同宣言や合意文書によって、日米安保条約は完全に変質してしまっている。

「9.11同時多発テロ」を受けて、2002年9月にアメリカは「合衆国国家安全保障戦略」で「先制攻撃ドクトリン」を打ち出した。これは「自国の安全に対して脅威となるいかなる政府も打倒する、一方的な権利を持っていること」を宣言したものである。世界中の有識者から、この宣言が1648年のウェストファリア条約以来続いてきた、近代国際法の理念を破壊するものだと指摘されている。

2005年10月、国会の審議もなく当時の外務大臣・防衛庁長官がアメリカと交わした合意文書「日米同盟:未来のための変革と再編」によって、事実上そうしたアメリカの他国への一方的攻撃に協力することを約束してしまったのである。この合意によって、日本はアメリカの真の属国となり、「米軍の世界戦略の手ごまとして、世界反テロ戦争に投入されること」が決まったのである。

この合意文書の問題は、日米安保にはあった「国連の尊重」も「極東という地域の縛り」も、もはや存在せず、日本が中東をはじめとする世界中で、米軍の世界戦略と一体化して行動できるようになっていること。つまり完全に憲法違反の条約なのである。
アメリカは「国内では民主主義、国外では帝国主義」という2つの顔を持っている。ただし、アメリカの帝国主義は、領土を求める旧来型の帝国ではなく、米軍基地を置くことで世界を支配する新しい形の帝国(基地帝国)である。

今とるべきは太田元知事が提唱する「親米・反基地」の道である。日本にある米軍基地を縮小し、世界中の米軍基地に逆ドミノを起こす。その第一歩が沖縄のすべての海兵隊の撤退である。次に例えば2025年という期限を切って、国内すべての米軍基地を撤退させる。これを実現する方法は憲法改正である。「2025年以降、外国の軍事基地、軍隊、施設は、国内のいかなる場所においても禁止される」。この一行を国会と国民投票で決議すれば、それで終わりである。

対米従属という点では、日本よりはるかに不利な状況にあったフィリピンが、1987年に制定した憲法に基づき、米軍基地の完全撤去を実現させている。フィリピンよりさらに条件の悪いバルト三国(ラトビア、リトアニア、エストニア)でさえ、独立してソ連の基地がなくなった後も国家として立派に存続している。NATOに正式加盟するまでの13年間、彼らは様々な恐怖に耐えながら、困難な局面を乗り切っていったのである。

だから日本にできないはずはない。足りないのはただ一つ、「勇気」だけ。この言葉はフィリピン上院を取り巻く新条約批准反対派のデモが掲げた、多くのプラカードに書かれていたという。


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