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2021/04/19 (Mon) 密約の戦後史
2021/01/08 (Fri) 人新世の「資本論」
2020/11/26 (Thu) 自由の命運(上)
2020/07/16 (Thu) 無人の兵団

 新原昭冶著「密約の戦後史」を読んだ。戦後、日本を米軍の核戦略拠点・核戦争基地として利用するアメリカの政策に、歴代の自民党政権は、表向きは「非核」を口にしながら、実際は追随と協力を重ねてきた。そして四つの核密約によってその事実を隠そうとしてきた。1「日米核密約」、2「第二の核密約」、3「小笠原核密約」、4「沖縄核密約」である。

密約による隠蔽が必要だったのは、日本国民の「原水爆禁止」と「核使用反対・核持ち込み拒否」の世論と運動を、日米両政府が強く警戒していたからである。この根強い非核世論がアメリカの核兵器配備政策に対する歯止めにもなってきた。しかし、アメリカ政府は唯一の被爆国・日本を核戦争基地に変えるため、厳重な秘密政策をとりながら、各戦略と一体の日本国内への核持ち込みを執拗に追及してきた。それが「日本型核持ち込み方式」とも呼ぶべきやり方である。

核兵器を積んだ米軍艦の常時的寄港によって「格の一時的な持ち込み」(トランジット)を慣習化して継続しながら、他方で、世論の抵抗を何とか抑え込んで「核の常時配置」(イントロダクション)の実現をも追及するという、二段構えの方式である。
一方、日本への核持ち込み疑惑を決定的に裏付けるラロック証言の衝撃への反応として、いかなるかたちでも核兵器を持ち込ませるなという動きが、自治体関係者を含め国民の間に広がった。その重要な表れの一つが、「核兵器を積んだ艦艇の神戸港入港を一切拒否する」という、1975年3月18日の神戸市議会の全会一致決議とそれに基づく「非核神戸方式」である。

アメリカ政府の核兵器の所在を「否定も肯定もしない」政策の破綻を促進したのは、核を積んだ艦船の寄港に対する各国での反対のひろがりであった。とりわけ、「非核証明」なしには外国艦船の寄港を認めないとする政策を、日本の神戸市当局やニュージーランド政府が実施し始めたことは、決定的な痛手となった。

日本での非核自治体づくりの運動や核持ち込みの追求は、自民党の懸命の抵抗にもかかわらず全国に広がっていき、非核宣言を行った自治体は、1980年以前が11であったのが、1980年代に入って増え始め、1990年までに計1787自治体、2001年までに2600自治体に達した。これは全自治体数の4分の3を越す、とてつもない数なのである。

世界各国でもアメリカの核を積んだ艦船や航空機の立ち寄りが批判の的となり、1991年9月27日に、ブッシュ大統領(父)が戦術核兵器の海外からの引き上げ政策を表明。それによって、空母や巡洋艦、攻撃型原子力潜水艦などに常時積んでいた核兵器を、「平時」には積まないことになった。また、西ヨーロッパを除き戦術戦闘機や戦闘爆撃機に装備する戦術核爆弾を、「平時」には外国から撤去することにした。これと併せて各砲弾など陸軍のいわゆる戦場用核兵器を全廃した。

この戦術核兵器の海外からの引き上げの本質は、核兵器の配備形態を常時配備型から有事持ち込み型に変えたに過ぎない。そのためにアメリカ政府は「否定も肯定もしない」政策をとっていたわけである。アメリカ本国に持ち帰ったこれらの戦術核兵器を「中央地域」すなわちアメリカ本土に保管し、「有事」には再び海外に配備するのである。
こうして、海外へのアメリカの核兵器配備政策は、先制核攻撃政策、そのための有事配備、その全容を隠す「核の所在を否定も肯定もしない」秘密主義という、三本柱からなっているのである。

非核三原則厳守・核密約破棄・日本の非核化の実現を推進する新たな機運と世論をひろげることは、速やかな核兵器廃絶実現への取り組みと一体の重要な動きとなるだろう。それは、対米従属の日米軍事同盟から脱して、我が国が唯一の被爆国にふさわしく非核・平和の自主的な道へと進むことにもつながるはずである。

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吉田茂による秘密裏の安保条約調印をはじめとして、岸信介による安保条約改定。安倍晋三による秘密法・戦争法・共謀罪法・モリカケサクラまで、戦後の歴代自民党政権は、対米従属政策を推進するうえで不都合な事項は密約によって国民の目から隠蔽し、国会では虚偽答弁で国民をだまし続けてきた。これが自民党の本質であり変わることはないだろう。つまり、自民党政権が続く限り国民は騙され続けるということであり、一般国民にとってよりよい社会がもたらされる可能性はないのである。それは戦後の歴史が証明している。

 斎藤幸平著「人新世の「資本論」」を読んだ。本書は、最新のマルクス研究の成果を踏まえて、気候危機と資本主義の関係を分析していくなかで、晩年のマルクスの到達点が脱成長コミュニズムであり、それこそが「人新世」の危機を乗り越えるための最善の道だととの確信に基づいて、人類が環境危機を乗り切り、「持続可能で公正な社会」を実現するための唯一の選択肢が、「脱成長コミュニズム」であると説いている。

SDGsもグリーン・ニューディールも、そしてジオエンジニアリングも、気候変動を止めることはできない。「緑の経済成長」を追い求める「気候ケインズ主義」は、「帝国的生活様式」と「生態学的帝国主義」をさらに浸透させる結果を招くだけである。その結果、不平等を一層拡大させながら、グローバルな環境破壊を悪化させてしまう。

資本主義が引き起こしている問題を、資本主義という根本原因を温存したままで、解決することなどできない。解決の道を切り拓くには、気候変動の原因である資本主義そのものを徹底的に批判する必要がある。

しかも、希少性を生み出しながら利潤獲得を行う資本主義こそが、私達の生活に欠乏をもたらしている。資本主義によって解体されてしまった<コモン>を再建する脱成長コミュニズムのほうが、より人間的で、潤沢な暮らしを可能にしてくれるはずだ。

それでも資本主義を延命させようとするなら、気候危機がもたらす混乱のなか、社会は野蛮状態に逆戻りすることを運命づけられている。冷戦終結後の30年間で明らかになったように、資本主義を等閑視した冷笑主義の先に待っているのは、「文明の終わり」という形での、全く予期せぬ「歴史の終わり」である。だからこそ、私達は連帯して、資本に緊急ブレーキをかけ、脱成長コミュニズムを打ち立てなければならないのである。

私達は資本主義の生活にどっぷりつかって、それに慣れ切ってしまっている。理念には賛同しても、システムの転換というあまりにも大きな課題を前にして何をしていいかわからず、途方に暮れてしまうだろう。資本主義と、それを牛耳る1%の超富裕層に立ち向かう困難な「闘い」に99%の人たちを動かすなんて到底無理だ、としり込みしてしまうかもしれない。

しかし、ハーバード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、「3.5%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのである。事例を挙げると、フィリピンのマルコス独裁を打倒した「ピープルパワー革命」(1986年)、大統領のエドアルド・シュワルナゼを辞任に追い込んだグルジアの「バラ革命」(2003年)、ニューヨークのウォール街占拠運動、バルセロナの座り込みなどがある。

「3.5%」の人々が起こすべきアクションの身近な例としては、ワーカーズ・コープや学校ストライキ、有機農業、地方自治体の議員への立候補、環境NGOでの活動、市民電力、所属企業への厳しい環境対策要求、気候非常事態宣言への署名活動、富裕層への負担要求運動など様々なものが考えられる。そうやって、相互扶助のネットワークを発展させ、強靭なものに鍛え上げる。

これまで私たちが無関心だったせいで、1%の富裕層・エリート層が好き勝手にルールを変えて、自分たちの価値観に合わせて、社会の仕組みや利害を作り上げてしまった。
3.5%の人々の動きが、大きなうねりとなれば、資本の力は制限され、民主主義は刷新され、脱炭素社会も実現されるに違いない。

資本主義の歴史を振り返れば、国家や大企業が十分な規模の気候変動対策を打ち出す見込みは薄い。解決策の代わりに資本主義が提供してきたのは、収奪と負荷の外部化・転嫁ばかり。矛盾をどこか遠い所へと転嫁し、問題解決の先送りを繰り返してきた。

資本による転嫁の試みは最終的には破綻する。このことが、資本にとっては克服不可能な限界になる。転嫁には技術的、空間的、時間的という三種類の転嫁がある。技術的転嫁は問題を解決せず、むしろ技術の濫用によって、矛盾は深まっていく。空間的転嫁は、矛盾を中核部にとってのみ有利な形で解消する試みで、矛盾を周辺部へと移転するだけ。時間的転嫁は、負担を未来へと転嫁し、将来を犠牲にすることで、現在の世代は繁栄するやり方。

外部(転嫁先)の消尽によって、危機から目を背けることは、今やますます困難になっている。気候危機が人類に突き付けているのは、採取主義と外部化(転嫁)に依拠した帝国的生活様式を見直さなくてはならないという厳しい現実に他ならない。
外部化ができなくなれば、これまでのような資本蓄積はできなくなる。環境危機も深刻化し、資本主義システムの正当性は大きく揺らぎ、既存のシステムに反対する抗議活動も盛んになっていく。

資本主義システムが崩壊し、混沌とした状態になるのか、別の安定した社会システムに置き換えられるのか、その資本主義の終焉に向けた「分岐」が、今や始まっているのである。

グリーンニューディールは、再生可能エネルギーや電気自動車を普及させるための大型財政出動や公共投資を行う。そうやって安定した高賃金の雇用を作り出し、有効需要を増やし、景気を刺激することを目指す。好景気が、さらなる投資を生み、持続可能な緑の経済への意向を加速させると期待するのだ。危機の時代に、新自由主義はもはや無効でこれからは、新たな緑のケインズ主義、「気候ケインズ主義」だというわけである。

気候ケインズ主義に依拠した「緑の経済成長」こそが、資本主義が「平常運転」を続けるための「最後の砦」になっているのである。その「最後の砦」の旗印になっているのが、「SDGs」だ。環境学者ヨハン・ロックストロームは、経済成長か、気温上昇1.5℃未満の目標か、どちらか一方しか選択できないことを公に認めた。つまり、経済成長と環境負荷の「デカップリング」が、現実には極めて困難であると判断した。

2~3%のGDP成長率を維持しつt、1.5℃目標を達成するためには、二酸化炭素排出量を今すぐにでも年10%前後のペースで削減する必要がある。だが、市場に任せたままで、年10%もの急速な排出量削減が生じる可能性がどこにもないのは明らかだろう。これが経済成長の罠である。

資本主義は、コストカットのために、労働生産性を上げようとする。労働生産性が上がれば、労働者は少なくて済むから、経済規模が同じなら失業者が増える。失業率が高いことを政治家は嫌うから雇用率を守るために、絶えず経済規模を拡張していくよう強い圧力がかかる。こうして、生産性をあげると、経済規模を拡大せざるを得なくなる。これが「生産性の罠」である。

資本主義は、「生産性の罠」から抜け出せず、経済成長を諦めることができない。そうすると今度は、気候変動対策をしようにも、資源消費量が増大する「経済成長の罠」にはまってしまう。だから、科学者たちも、資本主義の限界に気づき始めたのである。2019年、1万人を超える科学者たちが、「気候変動は、裕福な生活様式の過剰消費と密接に結びついている」ことを訴え、既存の経済システムから抜本的に転換する必要性を唱えたのだ。

「人新世」の時代に私たちが選びうる未来の形は、平等の程度を横軸に、権力の強度を縦軸にとると、両軸で挟まれる①右上、②右下、③左上、④左下の4つの領域で表わされる。

①は「気候ファシズム」で、国家権力が強く、不平等な未来。現状維持を強く望み、資本主義と経済成長にしがみつき、気候変動による被害により、一部の超富裕層以外まともな生活ができなくなる。

②は「野蛮状態」で、国家権力が弱く、不平等な未来。大衆の反逆によって、強権的な統治体制は崩壊し、世界は混とんに陥る。人々は自分の生存だけを考えて行動する「自然状態」に逆戻りしてしまう。

③は「気候毛沢東主義」で、国家権力が強く平等な未来。「野蛮状態」を避けるために、貧富の格差による対立を緩和しながら、トップダウン型の気候変動対策がなされる。自由市場や自由民主主義の理念を捨てて、中央集権的な独裁国家が成立し、より「効率のよい」、「平等主義的な」気候変動対策が進められる。

④は「脱成長コミュニズム」で、国家権力が弱く平等な未来。平等で持続可能な脱成長型社会。資本主義の危機を乗り越えるために、非西欧・前資本主義の共同体から定常型経済の原理を学び、取り入れたコミュニズム。

脱成長のコミュニズムへの跳躍に向けて、私達がなすべきことを5つの柱で示す。
①使用価値経済への転換
「使用価値」に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却する。
「使用価値」とは有用性であり、社会の再生産にとって有益なものであって、資本主義における売れ行きの良いものを中心に生産される商品としての「価値」とは異なる。

②労働時間の短縮
労働時間を削減して、生活の質を向上させる。必要のないものを作るのをやめれば、社会全体の労働時間は大幅に削減できる。労働時間を短縮しても、意味のない時間が減るだけなので、社会に実質的な繁栄は維持される。ただし、完全オートメーション化による労働時間の削減は、労働者という賃金奴隷の代わりに、化石燃料という「エネルギー奴隷」が働くことになり、地球環境に壊滅的な影響を及ぼすから問題である。

③画一的な分業の廃止
画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる。人々が多種多様な労働に従事できる生産現場を設計する。労働以外の余暇としての自由時間を増やすだけでなく、労働時間のうちにおいても、その苦痛、無意味さをなくす。労働をより創造的な、自己実現の活動に変えていく。

④生産過程の民主化
生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる。労働者たちが生産における意思決定権を握ること、即ち「社会的所有」によって、生産手段を<コモン>によって民主的に管理する。つまり、生産技術の開発や使い方、使用エネルギー、原料について民主的な話し合いによって決めるのである。コミュニズムは、労働者や地球に優しい新たな「開放的技術」を<コモン>として発展させることを目指す。

⑤エッセンシャル・ワークの重視
使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークを重視する。ケア労働など機械化が困難で、人間が労働しないといけない「労働集約型産業」を重視する社会に転換することによって経済を減速させる。ケア労働は社会的に有用なだけでなく、低炭素で、低資源使用なので、地球環境にとっても望ましい。

「フィアレス・シティ」とは、国家が押し付ける新自由主義的な政策に反旗を翻す革新的な地方自治体を指す。国家に対しても、グローバル企業に対しても恐れずに、住民のために行動することを目指す都市だ。
Airbnbの営業日数を規制したアムステルダムやパリ、グローバル企業の製品を学校給食から閉め出したグルノーブルなど、さまざまな都市の政党や市民団体が「フィアレス・シティ」のネットワークに参加している。一つの自治体だけの試みでは、グローバル化した資本主義を変えることはできない。だから、世界中の様々な都市や市民が連携し、知恵を交換しながら、新しい社会を作り出そうとしているのだ。

なかでも、最初に「フィアレス・シティ」の旗を立てたバルセロナ市政の取り組みは野心的である。その革新的な姿勢は2020年1月に発表されたバルセロナの「気候非常事態宣言」にも表れている。2050年までの脱炭素化(二酸化炭素排出量ゼロ)という数値目標をしっかりと掲げ、数十頁に及ぶ分析と行動計画を備えたマニフェストである。宣言は、自治体職員の作文でもなく、シンクタンクによる提案書でもない。市民の力の結集なのだ。

行動計画には、包括的でかつ具体的な項目が240以上も並ぶ。二酸化炭素排出量削減のために、都市公共空間の緑化、電力や食の地産地消、公共交通機関の拡充、自動車や飛行機・船舶の制限、エネルギー貧困の解消、ごみの削減・リサイクルなど、全面的なプランを掲げている。
その内容はグローバル企業と対峙しなくては実現できないものも多く、「フィアレス・シティ」の戦う姿勢が表れている。ここには、経済成長ではなく、市民の生活と環境を守るという意思がはっきり読み取れる。脱成長社会のエッセンスである「価値」から「使用価値」への転換をここに見出すことができる。

民主主義の刷新はかってないほど重要になっている。気候変動の対処には、国家の力を使うことが欠かせないからである。コミュニズムを選択肢とする際、専門家や政治家たちのトップダウン型の統治形態に陥らないようにするためには、市民参画の主体性を育み、市民の意見が国家に反映されるプロセスを制度化していくことが欠かせない。そのためには、国家の力を前提としながらも、<コモン>の領域を広げていくことによって、民主主義を議会の外へ広げ、生産の次元へと拡張していく必要がある。協同組合、社会的所有や「(市民)営化」がその一例だ。

 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン著「自由の命運 上」を読んだ。本書は、自由が生まれ栄えるためには、国家と社会がともに強くなければならないと主張する。暴力を抑制し、法を執行し、また人々が自由に選んだ道を追求できるような生活に不可欠な公共サービスを提供するには、強い国家が必要だ。強い国家を制御し、それに足枷をはめるには、結集した強い社会が必要だ。社会の絶えざる警戒がなければ、どんな憲法も保証も、それが書かれた羊皮紙ほどの価値しか持たなくなるからだ。

専横国家がもたらす恐怖や抑圧と、国家の不在がもたらす暴力や無秩序の間に挟まれているのが、自由への狭い回廊である。国家と社会が互いに均衡するのは、この回廊の内部である。均衡といっても、革命によって瞬間的に達成されるものではない。均衡とは、両者の絶え間ない、日常的なせめぎ合いである。このせめぎ合いは利益をもたらす。回廊の中で、国家と社会はただ競争するだけでなく、協力もする。この協力に助けられて、国家は社会が求めるものを提供する能力を高め、社会は国家の能力を監視するためにますます結集することができるのだ。

これが扉ではなく回廊である理由は、自由の実現が点ではなくプロセスだからだ。国家は回廊内で長旅をして、ようやく暴力を制御し、法律を制定・施行し、市民にサービスを提供し始めることができる。これがプロセスである理由は、国家とエリートが社会によってはめられた足枷を受け入れることを学び、社会の異なる階層が違いを超えて協力し合うことを学ぶ必要があるからだ。この回廊が狭い理由は、こうしたことが容易ではないからだ。

著者は政治哲学者ホッブズの「リヴァイアサン」をアイコンとして用い、国家が強すぎれば「専横のリヴァイアサン」(独裁国家)が生まれ、逆に弱すぎれば「不在のリヴァイアサン」(無政府状態)に堕してしまう。専横と不在の二つのリヴァイアサンの挟まれた狭い回廊に入り、国家と社会のせめぎ合いをへて「足枷のリヴァイアサン」を生み出した国だけが、赤の女王効果によって自由と繁栄を維持できると主張している。

古今東西の豊富な歴史研究をもとに、シリア、古代ギリシャ、建国期のアメリカ、中国など、世界各国が三つのリヴァイアサンのうちのいずれの道筋をたどったのか、その要因とプロセスを分析、理論化した。なぜ西欧だけに「足枷のリヴァイアサン」が生まれたのか、その理由について考察している。

この理論によれば、日本は国家に比べて社会の力が弱く、せめぎ合いもあまり見られないことから、自由への狭い回廊から外れて「専横のリヴァイアサン」(独裁国家)に成り下がりつつあるということになる。

 田中利幸著『検証「戦後民主主義」』を読んだ。本書の目的は、日米の「戦争責任問題」の取り扱い方の絡み合いを、空爆、原爆、平和憲法の3点に絞って分析することにある。さらには、日米の公的「戦争記憶」がいかにして作られ今も操作されているのか、その「公的記憶」に対して、我々市民が自分たち独自の「歴史克服のための記憶」の方法を創造していくにはどうすべきかについても議論する。

 太平洋戦争末期の空爆による無差別大量殺傷の責任の全容は、単にアメリカ側の行動を一方的に分析するだけでは決して明らかにはならない。アメリカによる加害行為を、被害国である日本側の天皇制ファシズム国家政府の「防空体制」の実態と複合的に考察することによって、はじめてその責任の全体像が明らかとなる。その「防空体制」は、天皇制国家に内在する「自国民犠牲化構造」に深く組み込まれていたのである。

 すなわち、昭和天皇・裕仁の「赤子」たち国民が、深さ1メートルもない狭い穴を古畳やトタンで覆った「待避壕」に身を隠し、いつ直撃弾にやられるかと怯え震え、あるいは、焼夷弾の猛火に囲まれ、我が子を抱えて狂うように逃げ回っていたとき、裕仁自身は「御文庫」と呼ばれる強固な防空邸宅の地下防空壕に、あるいは、その邸宅から100メートルほど先の、地下道でつながっている「吹上(地下)防空室」に避難していたのである。

 長崎への原爆投下後も、無差別空爆は終戦前日の8月14日まで毎日のように続けられた。この事実は、「原爆投下終戦決定要因」論がいかに根拠のない神話であるかを証明している。

 原爆無差別大量殺戮という重大な「人道に対する罪」をアメリカが犯すような状況を日本側が作り出したという点で、確かに「招爆責任」が裕仁と天皇制ファシズム国家権力支配層にあったことは疑問の余地はない。しかし、原爆使用決定に至る経緯を分析すると、トルーマン大統領と当時の米国政府の重鎮たちが、裕仁にそのような「招爆」状況を作らせるように画策したという事実があることも明らかになる。

「招爆論」の核心には、「国体護持」という重要な問題があった。さらに米国の原爆攻撃による無差別大量殺戮「正当化論」の目的と、日本の原爆被害の「終戦利用」、とりわけ「終戦の詔勅」での利用の真の目的が、それぞれ「招爆画策責任」と「招爆責任」を隠蔽することであった。そのような日米両国のそれぞれの責任隠蔽が、戦後の新しい「日本民主主義」のみならず米国の「民主主義」をも、矛盾に満ちた屈折したものにしてしまったのである。

 天皇裕仁を「戦争犯罪/戦争責任」問題から引き離し、なるべく無傷のままで「天皇制」を脱政治化しながらも温存、維持していくことが、日本の占領政策を円滑に進めていくため、とりわけ急伸しつつあった共産主義活動とその思想浸透を抑え込んでいくためには絶対に必要であるというのが占領軍司令官の考えであり、米国政府の一貫した基本政策でもあった。

 しかしこのときマッカーサーは、2つの極めて憂慮すべき事態、すなわち1946年5月開廷予定の東京裁判で、オーストラリアが裕仁の訴追を強く要望していたこと、2月に日本占領の最高政策決定機関として「極東委員会」が発足する事態に直面していた。同委員会の構成国は東京裁判の構成国と同じであり、しかも、戦犯裁判の政策決定や、憲法改正案の作成などの権限を保持していた。

 したがって、極東委員会が戦犯裁判の政策や、憲法改正案の作成に関する議論を開始する前に、裕仁の「不起訴=免罪・免責」と「新憲法による天皇制維持」の両方を確定しておくことが急務であった。そのためには天皇裕仁が本来は「平和主義者」であることを強く表明し、同時に、将来天皇の権限が政治家や軍指導層に政治利用される可能性を完全に除去しておく必要があるとマッカーサーは考えていた。その決定的手段として、連合諸国が驚嘆するに違いない「戦争放棄条項」を新憲法に盛り込むことが非常に有効であることを、幣原との会談で突然思いついたのである。

 憲法作成の歴史過程を踏まえれば、日本国憲法は「裕仁/天皇制救出憲法」と称すべきものであった。したがって、日本国憲法は「おしつけられた」結果の「妥協の産物」などではなく、本質的には「日米合作」と称すべきものであった。しかも憲法草案の基礎となった「マッカーサー草案」には、当時の大半の日本人の想いを反映する幣原の「不戦」の願いや、在野の「憲法研究会」作成による「憲法草案要綱」に含まれていた民主主義的思想が強く反映されており、それらは最終的に新憲法にも色濃く反映された。

 にもかかわらず、重大な問題は、憲法第1章1条~8条と2章9条が、裕仁の「戦争犯罪と戦争責任」を帳消しにするために設定されたという、この厳然たる事実である。一国の憲法が、その国家の元首の個人的な「戦争犯罪・責任の免責・免罪」を意図して制定されたこと、憲法第1章で規定された国家元首の、本来は問われるべき戦争犯罪責任を、第2章9条の平和条項で隠蔽してしまったこと。
つまり、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免責の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。

 普遍原理と国家原理の間の深い矛盾を抱えた特異な憲法を持つ日本国家に暮らす我々市民が、その国家原理に抵抗していくには、憲法前文と9条が持つ普遍的人道主義と絶対平和主義を市民運動でフルに活用していくより他に道はない。
この道を選ばずに、日本という国家原理のみならず米国の国家原理にも服従する道を選び続けるならば、日本市民の「平和的生存権」そのものが侵される状況がすぐそばまで迫ってきているのである。

 問題は憲法第1章1条の「国民統合の象徴」という表現である。この「象徴」は、もともとは、戦前・戦中の「国体」観念を構成する3つの重要な要素の1つであった。戦前・戦中「国体=国の形」は、政治権力、軍事権力、象徴権威の3つの要素が「天皇=現人神」に統合されている形になっていた。

 「全面降伏」にもかかわらず、「国体」の「象徴権威」だけは温存することで天皇制維持を図りたい裕仁並びに日本政府の意向と、「象徴権威」維持を許し、直接的「権力」を剥がしたうえで、その「権威」を日本占領統治支配のために政治的に利用しようとする米国側の思惑が一致した。とりわけソ連の日本占領政策への介入と日本への共産主義思想の浸透を極力避けるという点で日米の意向は完全に一致した。

 現行憲法の規定によれば、「象徴」は、厳密には非宗教的なものでなくてはならない。ところが実際には、いまも神道宗教に基づく「三種の神器」を保持する「神」である「天皇」によって代表されている。しかも、「象徴」の葬儀である「大喪儀」や新しい「象徴」の即位式である「大嘗祭」など、国民の巨額に上る税金を使って宮内庁が執り行う重要な皇室関連儀式はほとんどが神道に基づいて行われていることからも、違憲行為そのものである。

 本質的には、憲法1条は、明治憲法3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」を明らかに継承しているのであり、「神聖な天皇」の下に、日本国民が統合されているという「幻想家族国家共同体」観念を、主として大衆の無意識のレベルで、今も作り出していることは否定しがたい。

 ポール・シャーレ著「無人の兵団」を読んだ。本書は自律型兵器の現状と未来を展望している。ターゲットを捜し、ターゲットに向かい、攻撃を決定し、攻撃するという4段階の意思決定プロセス(OODAループ)の中枢に人間がいるものは、半自律型兵器、ループのすべてをAIが行う場合は、完全自律型兵器と呼ばれる。

イスラエルのハーピー滞空弾薬のような限定的な完全自律型はすでにいくつか存在する。イージス・システムは、監督付き自律型ウェポン・システムと呼ばれる。このシステムでは、人間が各種の設定を決めて、脅威を確定した後は、兵器が自律して防御のための攻撃を行う。ただし、人間が途中で攻撃中止を命じることができる。半自律・完全自律・監督付き自律という三つの型には、それぞれ長所と短所がある。

無人兵器システムは米映画「ターミネーター」に出てくる殺人ロボットではなく、「スカイネット」に対応する。兵器運用のプロセスは、兵器の「ライフサイクル」と「ターゲティング・サイクル」(「キルチェーン」)からなる。

「ライフサイクル」とは、兵器化開始の初段階におけるコンセプト規定から、研究開発、技術的検証や兵器の試験・評価・検証、使用、そして廃棄に至る、物理的には数十年に及ぶ時間の中での兵器の管理を指す。「ターゲティング・サイクル」とは、攻撃の起動、探索、識別、追跡、(兵器の)選択、攻撃、評価の各機能を分解したもので、攻撃作戦のプロセスを概念分解したものである。

次世代の戦争で人工知能(AI)が決定的な役割を果たすとされるのは、戦場の特性に応じて、「ターゲティング・サイクル」の各段階を人工知能が自動化することが予想されるためである。それによって戦争は極めて効率的になると期待される。

しかし、たとえ効率的な戦闘が望まれるとしても、現実的に兵器の自律化に対しては、現職の軍人を含む大きな反対がある。国防省指令では、兵器の信頼性の重要度が強調されており、信頼できない無人兵器システムを米軍が運用することを禁じている。その上で、兵器システムには効率的な「人間の介入」を担保する必要があると強調されている。

現段階のAIは、人間の予想外の答えを出すこともあれば、極めて簡単な判断を間違うこともあると指摘される。兵器にAIを導入したとして、それが信頼できない判断をする可能性があるのであれば、兵器システムに採用すること自体がリスクとなる。しかし、実証され、効果が検証された新技術を兵器に導入することは、自国の軍事力向上につながるため、各国は可能な限り開発を急ごうとする。この二つの立場の相克が、無人兵器システムの問題を複雑にしている。

兵器設計の段階で、人間の関与を担保する方法としては、問題が発生した場合に兵器システムを完全にシャットダウンできる、「キル・スィッチ」を兵器に常備させる措置などが考えられる。また、戦場の状況に合わせて人間の関与を担保できるようにする方法は、個別の状況における兵器の運用プログラムを構築することを意味する。兵器は、その使用方法や技術特性に応じて、国際人道法が完全に適用できるかどうか決まってくるため、兵器に「運用者」の意図を正確に反映させる方法が課題となる。

意図の反映には、ハードウエアをそのように設計する方法、ソフトウエアに組み込む方法、そして「人間と機械の連動性」により人間の介入を担保する方法がある。ハードウエアとソフトウエアに人間の関与を組み込む方法は理想的であるが、ルール順守の査察・検証方法が限定され、AI進化による予想不能な「知性」の発現可能性のため、人間と機械の連動性により人間の介入を担保する方法が現実的な方策として浮かび上がってくる。


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